横浜なのになぜ熊本城主の名前? 中区長者町の飲食店街「清正公通り」の名前の由来は?
ココがキニナル!
清正公通りって加藤清正公を祀る久保山の常清寺とも関係がある?/清正公通は加藤清正とゆかりがある?(maniaさん、円海山さん、shisamanoさん)
はまれぽ調査結果!
近くに熊本の領主であった加藤清正公を祀った社があったことから、1976(昭和51)年に清正公通りと名付けられた。
ライター:橘 アリー
加藤清正公とはいったいどんな人なのか!?
熊本城の公式ホームページによると加藤清正は、1562(永禄5)年、尾張国(おわりのくに、現在の愛知県)の生まれで豊臣秀吉とは血縁関係にあり、数々の戦で功績を上げた後、肥後国(現在の熊本県)の領主となり1607(慶長12)年に熊本城を築いた人物である。
加藤清正が築いた熊本城(フリー画像より)
領主となった清正は、新田の開発や南蛮貿易など積極的な領地経営を行った。それによって領地は栄え、領民からは「良い暮らしが出来るのも清正公様のおかげである」と、尊敬され親しまれたようだ。そして親しみの意味を込めて、“せいしょこさま”(清正公様を音読みし、さらに“う”を抜かして縮めた)と呼ばれていたそうである。
さて、熊本県では非常に親しまれている加藤清正は、横浜と何らかの関係があるのだろうか。まずは、中区長者町の「清正公通り(せいしょうこうどおり)」の様子を確認してみることに。
清正公通りの実際の様子は!?
清正公通りは、長者町通り沿いの中区長者町8丁目交差点と長者町7丁目交差点の中間にある路地で、住所は長者町8丁目である。
地図中のオレンジ色の所が清正公通り
長者町通りから見た清正公通りの様子
SEISHOKO STREETとある
道は福富町まで真っ直ぐに延びている
ここまでの約700メートルが清正公通りである
長者町通りを背にして見ると・・・
左側は「セイショウコウ プラザ」という名の、飲食店が入っている大きなビルがあり
右側も、飲食店が入ったビルや飲食店の店舗がある
ビルの名前に「セイショウコウ」と付いているが、それ以外は、通りには加藤清正に関係がありそうな雰囲気は微塵も感じられない。
そこで、道路の名前の由来について横浜市道路局に聞いてみた。
すると、清正公通りは、1976(昭和51)年度に始めた道路に愛称を付ける事業(道路に親しみを持ってもらうため)で付けられた道路の愛称で、通りに加藤清正を祀った社があったからとのこと。
1965(昭和40)年の明細地図で確認してみると、通りの近くに清正公堂がある。
赤い線の所が清正公通りで、オレンジの枠の所が清正公堂(クリックで拡大)
現在の清正公通りは飲食店街となっているので、ここに加藤清正を祀った社があったとは想像しにくいが、これで長者町の清正公通りは加藤清正と関わりがあると分かった。
続いて、清正公通りに清正公堂があった当時の様子を伺った。
和食料理店の万喜多(まきた)の向かい側に清正公堂があったそうである
板前の牧田修(まきた・おさむ)さんも近くに清正公堂があったと伝え聞いていた
万喜多は創業55年になる。清正公堂が現存したころを知る、万喜多2代目の牧田多香子さん(写真はNG)によると、清正公堂にはお堂のおもりをする尼さんがいたそうだ。その方は小柄でとても優しい人だったそうで、近所の子どもたちもよく清正公堂の境内で遊んでいたそうである。
現在、清正公堂があった場所にはセイショウコウプラザというビルが建っているが・・・
ビルの中央の入口の辺りが、ちょうど清正公堂の境内への入口だったそうである
清正公堂があった当時の様子が分かったところで、次は、清正公堂を誰がいつごろ建てたのかなどについて調べていくことに。そこで清正公通りが所属している商店会の長者町商栄会に問い合わせてみた。
すると、以前は清正公堂の横に常清寺(じょうせいじ)というお寺があり、そのお寺が清正公堂を管理していた、と教えていただけた。現在、常清寺は南区清水ケ丘に移転しているとのことなので、そこへ伺うことに。