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芸者が働く「花街」が井土ヶ谷の住宅地にあったって本当!?

ココがキニナル!

井土ヶ谷上町第一町内会館が見番(けんばん)として横浜市の歴史的建造物に登録されたとBSの旅番組で紹介されていました。井土ヶ谷に花街があったとは知りませんでした、詳細がキニナル(boyoさん)

はまれぽ調査結果!

井土ヶ谷上町付近はその昔、料亭が多数あり、着飾った芸者が歩く花街だった。町内会館は見番だった建物として横浜市歴史的建造物に登録されていた

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ライター:奥井利幸

見番(けんばん)とは?

見番を説明する前に、まず芸者の説明をする必要がある。

芸者は芸妓(げいぎ)ともよばれるが『日本花街史(明田鉄男著)』によると、その歴史はとても古く『日本書紀』の神話時代まで遡れるそうだ。

 

京都、祇園の芸者(左・イメージ) 東京、柳橋の芸者(イメージ)
(出典:『全国花街めぐり』松川二郎著 誠文堂 昭和6年6月2日発行)
 

平安時代になると神に踊りを奉納する巫女(みこ)が歌や舞を披露していく中で、貴族の家に出向いて歌劇を舞う白拍子(しらびょうし)という職業が生まれた。それが資料に残る芸者の起源といわれている。

 

平安時代の白拍子(三十六佳撰 白拍子 建久頃婦人 水野年方画)
 

その後、戦乱の中で白拍子は一旦廃れたが、江戸時代になると、各地を旅して歌や踊りで客を楽しませる女性たちが現れ、それが芸者の直接のルーツだといわれる。江戸時代後期には、座敷でお酒や料理を振る舞い、三味線や踊りを披露する芸者がいる街、すなわち、京都では祇園、江戸では吉原などの花街ができた。

芸者が強制的に花街で働かされること(いわゆる人身売買)も行われていたようだが、明治になると『娼妓解放令』が公布され、強制的に花街で働かせることが禁止された。その後、政府による管理の強化と容認とを繰り返しながら、明治から昭和初期にかけて、街の発展にともない自然発生的に全国各地に広く花街が作られてきたようだ。

ところで、芸者と遊女とはどう違うのかと思う人もいるかもしれない。芸者は先に述べたように三味線や踊りなど芸で客をもてなすのに対して、遊女は色を売ることで客をもてなす。ただし地域や時代により、必ずしも両者の区別が明確でないこともあったようだ。

昭和初期の芸者の様子は、三宅孤軒(みやけ・こけん)が著した『芸妓読本』に詳しく書かれている。三宅孤軒は大正から昭和初期に活躍した料理や料亭に関する文筆家で、芸者に関する著書も多い。

 

『芸妓読本』(三宅孤軒著 全国同盟料理新聞社 昭和10年発行)
 

たとえば、同著によると、芸者になるためには8歳くらいから稽古をはじめる必要があるとのこと。しかも、厳しい稽古で子どもが嫌がっても、「無理矢理」に稽古をさせる必要がある、とも書かれている。

また、芸者は酒席で夜遅くまで働くので、どうしても生活が乱れやすくなるとして、規則正しい生活や挨拶、神仏へのお祈りを欠かさないようにするとも書かれている。

芸者たちは「置屋(おきや)」とよばれる場所で待機して、料亭に来たお客さんからの派遣依頼があると、それをうけ料亭(あるいは待合(まちあい))に出向くことになる。
この料亭と置屋の調整・連絡や料金の決済を行うのが、キニナル投稿にある「見番(けんばん)」だ。

 

見番、置屋、料亭・待合との関係
 

図示するとこのようになる。見番はお座敷や芸者の管理・調整を行うほか、芸者が稽古を行う場にもなる。
なお、厳密には、料亭は料理の調理・提供を本業としつつ客室に芸者を呼び寄せて客を遊ばせる場所、待合は自前で料理はせず、仕出し屋から料理を取り寄せ、芸者を呼んで客を遊ばせる場所である。



井土ヶ谷で取材開始!

キニナル投稿によると、かつて横浜市南区井土ヶ谷上町に見番が存在し、いまは町内会館になっているとのことだ。
井土ヶ谷は横浜駅から京急のエアポート急行で8分、駅前にスーパーがあるごく普通の住宅地だ。

 

花街があったとされる井土ヶ谷上町
 

前出の『全国花街めぐり』では、全国各地にあった花街の場所が紹介されている。しかし、横浜で記載されているのは、真金町、永楽町、青木町、保土ケ谷だけで、井土ヶ谷の名は見当たらない。

本当にこんな普通の住宅地に、かつて花街があり、芸者が行き来していたのだろうか?

 

井土ヶ谷上町第一町内会町内会館
 

まずはキニナル町内会館に到着。かつては見番だったという建物だ。確かにちょっと趣がある。

 

スマホで場所を確認。井土ヶ谷駅から徒歩8分くらいのところにある


 

周辺住民に聞き込み!

建物を確認したところで、「周辺に住んでいる方々は花街があった事実を知っているのだろうか?」と思い付近を歩いている人に聞き込みをしてみる。

取材は平日の午後に行った。この付近は本当に普通の住宅地で、通りかかるのは子ども連れのお母さんがほとんど。子どもと一緒の人に、さすがになかなか声をかけることができなかった。
やっと通りかかった20代と思える男性に質問するも、「こんな住宅地に花街があったのですか?」と何も知らない様子だった。また別の男性も「20年以上住んでいるが花街のことは聞いたことがない」とのこと。

そのほか、犬と散歩しているご婦人など、数人にお話を聞いてみるが、皆さん何もご存じない模様。ちょっとくじけそうになってくる。聞き込み終了か?

そうこうしているうちに、歴史がありそうな豆腐屋さんが目についた。

 

1947(昭和22)年創業の坂大(さかだい)豆腐店
 

お店の人なら何か知っているかもしれないと思い、お話をお伺いすることにした。

 

赤線に沿って聞き込みをしながら歩いていき、辿り着いた
 

2代目の坂大富咋(さかだい・とみさく)さん
 

坂大さんの話によれば、「この店のあたりから、町内会館のあたりにかけて芸者さんが住む長屋がたくさんあってね、料亭もあったんだよ」とのこと。「でも詳しいことは分からないな。町内会長に聞けばなにか分かるかもしれないよ」

やっぱり、ここに花街があったというのは事実だったようだ。

この町内会長の佐々木哲夫(ささき・てつお)さんは、同じ町内で会社を経営しており、そこでお話を伺うことができた。

 

お忙しいなかお時間をいただいた町内会長の佐々木さん
 

佐々木さんのお話によると、確かに、この井土ヶ谷上町第一町内会のあたりは、昔は花街だったという。現在町内会館として使っている建物は見番として戦後まで使っていたとのこと。

ただし、ご自身は実は瀬谷区三ツ境の出身で、この付近が花街だったころの様子は直接には知らないそうだ。