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東京園の復活は?幻の楽園「綱島温泉」の痕跡を追う!

東京園の復活は?幻の楽園「綱島温泉」の痕跡を追う!

ココがキニナル!

結局「綱島温泉」はどうなってしまった・しまうのでしょうか?(よこはまいちばんさん・ぴろさん・ハムエッグさん・春貴恩さん・ナチュラルマンさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

綱島温泉最後の砦・日帰り温泉施設「東京園」はもはや見る影もない。戦前・戦後の一大温泉地からベッドタウン化した街は、今また新たな転換期を迎え、歴史の痕跡は急速に失われつつある

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ライター:結城靖博

東横線・綱島(つなしま)駅の名称が昔「綱島温泉」で、「東京の奥座敷」「関東の有馬温泉」と謳われた大規模温泉街だったと聞いて、驚く人も少なくないだろう。だが、歴史に関心の高い「はまれぽユーザー」にとっては、よく知られた事実でもある。それは、たびたび関連記事が取り上げられ、最近も現状を問うキニナル投稿が数多く寄せられていることからもわかる。
 
 
 
交通網の変化に翻弄された綱島温泉の歴史
 

 
綱島温泉の歴史については、過去記事『かつて綱島は温泉町として有名だったって本当!?』で詳しく紹介されている。古い写真なども載っているので、ぜひそちらをご覧いただくこととして、ここでは二転三転した温泉地の運命を、ざっくりとまとめておく。
 


綱島に芸者がいたころの絵葉書過去記事より) 

 
大正初期、地元住民によって綱島で源泉が発見され、昭和初期、鉄道網の整備とともに東京近郊の温泉街として発展。戦時体制下、温泉旅館が衰退し駅名も「綱島温泉」から「綱島」に改称されるが、戦後ふたたび総合レジャーセンター「行楽園(こうらくえん)」を中心に一大温泉観光地として復活。ところが、高度経済成長期に新幹線や東名高速が整備され観光地としての地位を伊豆・箱根などに奪われ、急速にベッドタウン化していく。
温泉地としての発展も衰退も、交通網の変化と結びついていたわけだ。
 


現在の綱島駅東口駅前。とにかくバスバスバス、狭い道路にバスが密集している

 
綱島は現在、駅東側の綱島街道沿いに、2022年度下期開業を目指して、相鉄・東急直通線の「新綱島」駅(仮称)を建設中だ。これにあわせて、周辺の大規模再開発計画も進んでいる。
計画の中には、東口駅前・バス乗降場付近の道路整備も含まれている。実現すれば、上の写真の風景もずいぶん変わるのだろうか。
 
 
 
綱島温泉最後の砦、「東京園」の今
 
そんな綱島温泉の最後の日帰り温泉施設だった「東京園(とうきょうえん)」が2015(平成27)年5月19日をもって無期限休業となった。
  


「東京園」の湯舟では黒い温泉が来客を癒した(過去記事より) 

 
休業の理由は、すでに述べた「新綱島」駅建設予定地の、まさにその上に「東京園」が建っていたからだ。ここでも、交通網の変化が絡んでいる。
 
東京園の開業中の様子や休業に至る経緯は、やはり以前はまれぽで複数回レポートしているので、そちらにゆずる(『歴史とともに、その顔を大きく変貌させてきた街。はま旅Vol.61「綱島編」』『68年の歴史に幕!? 綱島の歴史ある温泉施設「東京園」閉店の経緯とは?』)。
 
それから4年を経た東京園は、果たしてどうなっているのだろうか。
 


© OpenStreetMap contributors

 
よく見るとOpenStreetMap上では、すでに「東京園」に(跡)と付されている。
 


東口駅前の繁華街を抜けるとすぐ現れる「東京園」の今の姿

 


そして、かつての「東京園」外観(写真提供:吉田律人氏)

 
そこには、あの特徴的な黄色い建物も赤い煙突も見られない。真っ白い工事用仮設壁で覆われた「無機質な箱」があるだけだ。
 


東京園の右側に新駅の工事現場が広がっている

 


新駅工事現場に掲げられた掲示板

 
この光景ひとつとっても、温泉地として繁栄した綱島という街が今、また大きく変わろうとしていることがよくわかる。
 
結局、どうなってしまった・しまうのか?という「よこはまいちばん」さんのストレートな疑問を胸に、綱島温泉の事情に詳しい横浜開港資料館の調査研究員・吉田律人(よしだ・りつと)さんのもとを訪ねた。
 
 
 

綱島温泉研究の第一人者に話を聞く


 


日本大通りに面した横浜開港資料館

 
吉田さんは、昨年同館で催された展覧会「銭湯と横浜」を企画し、会期中「綱島温泉の誕生」という題目で講演をしている。また、「輪太郎」さんや「ぴろ」さんがキニナル投稿で行く末を案じていた「ラヂウム霊泉湧出記念碑(れいせんゆうしゅつきねんひ)」の保存・移設にも関わり、今年3月には記念碑に近い横浜市樽町(たるまち)地域ケアプラザで「綱島温泉の半世紀 ―ラヂウム霊泉湧出記念碑を中心に―」という講演もおこなった。
 


関係資料を携え丁寧に取材に応じてくれた吉田さん

 
「よこはまいちばん」さんが気になる「綱島温泉」とは、過去の歴史とつながる温泉施設が今となってはそこしかないことを思えば、おそらく「東京園」と置き換えてもいいだろう。つまり「東京園がどうなってしまった・しまうのか?」と。
 
これについて吉田さんは「休業当初は入浴施設だけでも残して営業を続けたいとの話でしたが、1年後には建物もなくなってしまった。経営者はすでに県外の地元に帰ってしまったという噂も聞こえてきます。でも横浜市浴場協同組合のホームページでは、まだ『東京園』は休業中となっていて、正直謎だらけ。はっきりしたことはわかりません」と言う。
 
東京園には地元の「憩いの場」を象徴するような、飲食類持ち込み自由、カラオケやダンスで一日のんびり過ごせる宴会場があった。
 


営業当時の宴会場(写真提供:吉田律人氏)

 
休業前の最終営業日、名残りを惜しむ大勢の常連客が宴会場の壁に書き込んだメッセージの中に、こんなものがあった。
 


誰が書いたのか、「美しきカオス」!(写真提供:吉田律人氏)

 
美しきカオス(混沌)の地は「美しさ」を記憶にとどめて、今はただ混沌だけが残されている。そんな印象が「東京園」の現状からは伝わってきた。
確かに言えることはただ一つ。「新綱島」駅の建設は着々と進行しているという事実だ。
 
綱島という土地には7つの転換期があったと吉田さんは言う。
「明治期に桃の名産地になる第1期。大正に入り源泉を発見した第2期。東横線ができて温泉街に発展する第3期。戦時下で温泉街が衰退する第4期。戦後の温泉街の復活が第5期。高度経済成長によりベッドタウン化する第6期。そして今また、再開発が進められようとしている第7期」
 


新駅工事現場を右側から見たところ。左奥に小さく見える白い箱が「東京園」

 
新駅周辺には商業施設・文化施設を併設する高層住宅の建設も予定されている。区の計画図と照合すると、上の写真正面の白い建物の辺りに高層ビルがドーンとそびえることになりそうだ。
 
こうした流れの中で、綱島温泉の往時を偲ばせる史蹟が次々と姿を消している。
「あれも消え、これも消えという中で、もし『ラヂウム霊泉湧出記念碑』が失われていたら、温泉地だった当時を直接伝えるものは、すべてなくなっていたでしょう」と吉田さんは言う。
 
 
 

奇跡的に命拾いした貴重な石碑


 
1933(昭和8)年、温泉街の発展を祝して源泉発見ゆかりの地、樽町(たるまち)の菓子店「杵屋(きねや)」の前に建立された「ラヂウム霊泉湧出記念碑」。
 
その石碑が旧・杵屋家屋の解体工事にともない解体業者によって処分されようとしていたのは、昨年2018(平成30)年12月のこと。これを知った地元県議会議員・嶋村公(しまむら・ただし)さんはじめ有志が迅速に働きかけて、今しも廃棄される寸前の石碑を引き取った。
どうにか生き残った石碑は、以前あった場所からほど近い、鶴見川をまたぐ綱島街道・大綱橋のたもとに現在建っている。
 


移設された石碑。なぜか取材時、鶴岡八幡宮のお守りが石碑の台座に置かれていた

 
綱島駅東口から歩いて大綱橋を渡りきった交差点の向かい、右角に石碑が見える。
 


石碑が建つ公有地の隣はファミリーマート

 
もともと石碑が建っていた綱島街道と旧綱島街道が分岐する三叉路も、そこから目と鼻の先だ。
 


解体工事中の家屋。昨年までここに石碑があった

 


大綱橋交差点から少し引いて撮影。赤い三角印が現在、黄色が移設前の場所

 
危うく命拾いをした石碑。吉田さん曰く「綱島温泉が歴史の闇に消える一歩手前でした」。失われなくて本当によかった。とはいえ・・・
 


石碑のそばには公有地であることを示す掲示板があるのみ

 
交差点の角地なので多くの人が信号待ちをしている。でも、石碑に気を止める人は少ない。年月を経て風化した刻字は薄く読みづらいし、かりに読めても「ラヂウム霊泉湧出記念碑」と書かれた現物だけでは、予備知識がなければ歴史的価値は測れない。「ぴろ」さんがキニナル投稿で指摘していたように、確かに説明板があってもよさそうなものだ。せっかく公有地にあるのだし。
 
急速に史蹟が失われていく現在、もはやこの石碑以外は、歴史の「痕跡」しか残されていないとも言える。
ならば仕方がない。それすら姿を消す前に、吉田さんから教えていただいたその痕跡をできる限り記録にとどめるべく、綱島の街を巡ることにした。
 
 
 

綱島温泉の痕跡を求めて① 樽町地区へ


 


© OpenStreetMap contributors

 
現在「ラヂウム霊泉湧出記念碑」が建つ場所の右隣りにはコンビニがあり、さらにその右手に、すでに廃業した温泉旅館「長楽(ちょうらく)」の建物が残っていた。残存する唯一の温泉旅館の遺構である。ところがその貴重な建物が、開港資料館に取材に行った前日、2019(令和元)年5月13日をもって解体されてしまったという。
 
実は、筆者は事前調査として令和元年の初日、5月1日に石碑を訪ねていた。そのときはまだ長楽の建物はあったことになるが、そんな重要なものとはつゆ知らず、そのときの写真には、長楽の屋根がたまたまほんの少し写っているだけだ。
 


ファミリーマートの右隣り、凹みに見える赤い屋根が、今はなき長楽(2019年5月1日撮影)

 


5月15日、すでにファミマの右に赤い屋根は見えない

 
近づくと、散乱する廃材の下に地面が覗く。今やトラックの奥に見える空き地は、「旧長楽跡地」と呼ぶほかない。
 
その場を去り、さらに綱島街道を南下する。
まもなく温泉街初期の中心地、「樽町」の交差点にたどり着く。次の信号は「菖蒲園前(しょうぶえんまえ)」だ。信号を左折するとすぐ右に「樽町しょうぶ公園」があった。
 


矩形にひらけた「樽町しょうぶ公園」。左奥の薄茶の建物は「樽町地域ケアプラザ」

 
ここはかつて、五島慶太(ごとう・けいた)率いる東京横浜電鉄(現・東急電鉄)が温泉街の観光スポットとしてつくった「綱島菖蒲園」だった。「ラヂウム霊泉湧出記念碑」が建立された同じ年、1933(昭和8)年に開園されたが、1938(昭和13)年に起こった鶴見川の大洪水被害の影響で、わずか5年で閉園になってしまった。
公園の内外を回ってみたが、ここが菖蒲園跡であることを伝える掲示板は見当たらなかった。過去を伝えるものは公園に付された名前の一部と綱島街道沿いの交差点名、そして公園前のバス停名だけだ。
 


公園前の「菖蒲園前」バス停

 
綱島街道に戻り、菖蒲園前交差点からさらに南下すること数分。最初の信号を右折して裏道に入ると、昔ながらのシブい商店街が、綱島街道と東横線に挟まれる形でのびている。
 


商店街の名は「大曽根商店街」

 
この商店街の中に、吉田さんから教えてもらった銭湯がある。綱島温泉の特徴である黒湯を今もたたえる「太平館(たいへいかん)」だ。ここは、「あった」ではなく、確かにまだ「ある」。
 


ただし、通り沿いの外観はこんな感じ

 
う~ん、どうなのでしょう・・・と思いつつ、ちょっと勇気を出してシャッターを下ろした店の間に足を踏み入れた。