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花街として栄えたころの「鶴見三業地」を徹底調査!

ココがキニナル!

京急鶴見駅を出ると三業地という地名があります。ディープな飲食店が多く、今もその面影がかすかに感じられます。花街として栄えた頃の鶴見三業地について調べてくれませんか?(ryoryoさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

鶴見三業地は、芸者衆が行き交う細い路地が入り組み、見越しの松がのぞく黒板塀に囲まれた料理屋から三味線の音が聞こえてくる情緒あるところだった!

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ライター:吉田 忍

鶴見三業地へ(続き)
 

この三業地会はいわゆる三業地のころの組合ではなく、1975(昭和50)年ごろから風俗店が増加し客引きなどで風紀が乱れたことから、治安維持のために結成されたものだった。現在は、毎日のゴミ収集を業者に委託することだけを手配する会として続いている。
 


飲食店街なので毎日業者によるゴミ収集があるが、家庭ゴミを置かれないよう専用ゴミ袋を使用

 
話を本題に戻して、三業地の成り立ちから現在までのお話を伺う。

「鶴見は東海道の間の宿(あいのしゅく)だったので、江戸時代には旅籠(はたご)が何軒かあったようだね。1872(明治5)年に鉄道の駅ができて、町が大きくなった。大正時代には京浜工業地帯として急激に発展して、旭硝子が日本初の社宅を作った。エリートの社宅で、鶴見駅周辺を通って会社に通ったのもあって、料亭ができて芸妓屋なんかもできたのが三業地の始まりです」と話してくれる。

三業地は旭硝子や日本鋼管、軍隊、軍需工場のエリート層が通った高級料亭がある場所だったという。

細谷さんは1930(昭和5)年、三業地の洋服屋に生まれた。芸者衆にも遊んでもらったし、近所の置屋から同じ小学校に通う女の子もいたという。女の子が置屋に売られるという事もあった時代なのだ。

「そういう子たちも友達だったから、大きくなって縁台で将棋を指してたりすると、お座敷に通う友達が通る。『今から行くのかい?』『うん、行ってくる』なんて普通に付き合ってましたよ」と懐かしそうに語る。
 


細谷さんが記憶を元に作成された1943(昭和18)年当時の地図 ※中町の昔と今より

 
「小川屋」や「かねよし」などの料亭があり、置屋もある。黄色で示した「見番(けんばん)」というのは、芸者の取り次ぎを行う場所で、料亭などは、見番に芸者の手配を依頼し、置屋は見番の差配によって芸者を派遣する。

地図にはないが、第一京浜の先には「鶴声(かくせい)」という大きな料理屋があって錚々(そうそう)たる著名人が訪れた。
 


この左側あたりに見番と置屋があったらしい
 

かねよしがあった場所
 

小川屋があったところ

 
華やかだった三業地は戦時中に空襲を受けた。1945(昭和20)年4月15日、城南京浜大空襲だ。午後10時10分の空襲警報とほぼ同時に、303機のB29によって東京南部、川崎に焼夷弾が投下された。午後11時ごろに、鶴見の潮田から被害が出始め、市場から鶴見川を超えて三業地に進み、1発目を受けて料亭小川屋が炎上。

「焼夷弾はザーっという夕立のような音がするんです。闇夜が昼間のように明るくなり、焦熱地獄でした。總持寺の上で高射砲によって撃墜されたB29も落ちてくるし、そりゃあ、怖かったですよ」

その後、5月29日の横浜大空襲もあって駅前付近に30戸ほどを残して三業地もそのほとんどが消失した。

しかし、戦後の復興景気とともに三業地は復活する。いくつかの料理屋が再建され、大きな料亭跡に小さな小料理屋やバーができて、戦前に増してお店の数が増えた。最盛期には50軒ほどの芸妓屋があったという。

ところが、無計画に店舗が建ち、狭い路地が入り組んで、防災上支障をきたすようになった。そこで、1965(昭和40)年頃から、区画整理が行われ、道路が整備され、近代的なビルが建ち始めた。同時に、このころから企業の本社機能が全て東京に集約化し、この地の社交場的な役割が終わり、料亭とともに芸妓屋や待合は姿を消していく。
 


1963(昭和38)年頃の三業地の第一京浜よりの地図 ※中町の昔と今より

 
この地図では、まだ料亭が残っている。そして、小さな店が密集しているのが分かる。

細谷さんに、お座敷遊びをした事があるかと聞くと、「高くて行けるような所じゃなかったけどね、20代の半ば、昭和30年ごろかな、10人ほどの仲間が集まって、夏祭りの後に行ったんだ。芸者は小学校からの友達を呼んで、わんちゃか騒いだ。そしたら勘定が払いきれなくてね、幹事が正月までかかって月賦で払ったんだよ」と笑う。

「いくらだったか覚えてないけど、大卒の初任給が8千円くらいで焼酎1杯50円の時代だから、数万円だったんだろうねえ」