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本牧って昔はどんな感じだった?(前編)

本牧って昔はどんな感じだった?(前編)

ココがキニナル!

本牧が米軍に接収されていた時代と、今は悲しいマイカル本牧の輝いていた時代をプレイバックしてください。(中区太郎さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

米軍に接収されていた時代、本牧は彼らからさまざまな影響を受けた。前編として、経済復興やグループサウンズの歴史をお届けする。

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ライター:松崎 辰彦

日本の復興にもなった生活用具の生産



米兵の家はディペンデントハウスと呼ばれ、戦後の日本でその建造は急務であった。

「日本全国ならびに朝鮮に総計2万戸のディペンデントハウスを建てよ」という命令が連合国軍総司令部(GHQ)より発令され、横浜には1200戸が割り当てられると同時に、米兵の生活様式を満たす家具や家電を短期間に95万点製造せよという指示も出た。

当時の日本にそれだけの物資があったとは考えづらいが、アメリカ側も少々勘違いしていたらしく、長沢さんいわく「私が聞いたところでは、“自分たち相手にあんな戦争をやったのだから日本はどこかに物資を隠しているのではないか”、と思っていたらしいです」とのことである。

この生活用具大量生産の背景には、「日本を早く復興に導く」というアメリカ側の思惑もあったようである。事実、このアメリカ風の家屋・家具・家電などの生活用具製造の要請を完遂することで、日本は復興の足掛かりをつかんだのみならず、飛躍的な産業技術の向上も果たした。
日本の産業界はこのとき培った基礎を土台としてその後大きく成長し、日本人の生活様式も欧米化したのだった。
 


1973(昭和48)年の米軍本牧海浜住宅(写真提供:横浜市史資料室)


長沢さんは「米兵の住宅や生活用品の大量生産は日本の戦後復興を後押ししましたし、工業生産力の向上、物質を活用する文明そして文化的な生活をもたらしました。一方であまり物資を消費せず、環境に負担をかけない古くからの日本人の生活を忘れさせました」とその功罪を判断する。
 


 

 

 

1970年代に米軍住宅で行われた最後の日米親善盆踊り大会 1981(昭和56)年8月
(写真提供:長沢博幸)


フェンス越しに見たアメリカは当初は日本人の憧れの的であったが、日本の復興とともに逆転した。当初は劣等感を持ったが、後には庭の広さは別として、建物自体は特別豪華とは思わなくなったと長沢さんはいう。日本が戦後急激な経済成長を果たしたことで彼ら米兵に対する視線も変わっていったことが窺える。
 


時代とともに米軍住宅への見方も変っていった 1981(昭和56)年5月
(写真提供:長沢博幸)




チャブ屋──本牧の光と影



戦後の本牧で、看過することができない風俗が「チャブ屋」である。
戦前のチャブ屋は1階が酒を飲んだりダンスに興じたりする場所、2階が娼婦の仕事場という構成の建物である。チャブ屋は本牧各所にできたようだ。
「本牧通りあたりにもできましたが、子どもは行っては駄目といわれていました」と長沢さんは回想する。

戦後のチャブ屋は外国人が客で、朝鮮戦争のころは連合国の軍人──アメリカ兵、イギリス兵、フランス兵など各国の兵士が出入りしていた。地域の経済はこの人たちのおかげで大変潤ったようだが、朝鮮戦争(1950〈昭和25〉年~1953〈昭和28〉年)が停戦して、日本経済が復興してきた1954(昭和29)年ころからこうした店は徐々に凋落(ちょうらく)し、1957(昭和32)年の売春防止法によって完全に消滅した。
 


売春防止法によりチャブ屋は消滅した


「本牧には『お六さん』と呼ばれた娼婦がいました。“本牧のメリーさん”と呼ばれた人です。もとは女学校を出たような人だったのですが、結核を患ったことで家族と別れ、娼婦に身を落としました。チャブ屋で6番目の部屋をあてがわれたことから『お六さん』と呼ばれるようになりました」

外国兵相手の娼婦となったお六さんの話は有名らしい。ふと長沢さんは立ち上がり、窓の外を指さした。
「お六さんが最後に住んでいたのが、この家からすぐのところなんです。当時、このあたりに黒人兵が並んでいたそうです」
長沢さんの自宅のすぐそばに、お六さんの住居兼仕事場があったのである。現在はもう跡形もないが、戦後本牧の闇の部分を象徴する女性は、やがて精神病院に収容されて亡くなったといわれている。