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明治時代に大人気だった外国人向けの土産「横浜写真」ってなに?

ココがキニナル!

白黒写真に彩色した「横浜写真」。明治時代に外国人向け土産として人気だったそうですが、どこが発祥?今もやっているところは?(aokabaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

明治時代に横浜で売られていた風景などの写真を「横浜写真」と呼ぶ。製版技術の普及などで明治30年代半ばに衰退し、現在、本来の「横浜写真」はない

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ライター:秋山 千花

そもそも「横浜写真」っていったい何?



今回お話をしてくださったのは、古写真研究家の井桜直美さん。
 


温かい笑顔に何だか救われた気分になる筆者


以前は美容師だったという井桜さん。しかし、「何か自分のやりたいことと違う」と違和感を覚えて突然美容師の仕事を辞めてしまったのだという。

そんな折、古写真収集を趣味とする友人に連れられて骨董市を訪れ、そこで古写真の魅力にハマってしまったのだとか。

1993(平成5)年には集めた写真を販売、貸出する「桜堂」をオープン。そして2004(平成16)年から日本カメラ博物館の古写真研究員としても働いている。
 


展示の企画や解説文を作成するのが主な仕事
 

と、ここでひとつキニナルのが呼び名の問題。
「古写真」と「横浜写真」って同じもの? そもそも「横浜写真」っていったい何なのだろう?

「『横浜写真』という言葉自体がけっこう曖昧なものなんです。20~30年前に研究者の方が名づけたようなんですが・・・」と井桜さん。

横浜開港資料館で得た資料と井桜さんの話をもとにまとめると、「横浜写真」は来日外国人に対する土産物や輸出品として、日本各地の風景や風俗の写真を明治時代に製造・販売していたもので、それが主に横浜で売られていたことからそのように呼ぶらしい。

そもそも日本に最初の写真機材が伝わったのは1840年代で、いわゆる「横浜写真」と呼ばれる写真が誕生したのは1860年代に入り、下岡蓮杖らが横浜に写真館を開業した後のこと。

その創始者とされるのは、報道写真家として名声を博し、1863(文久3)年に来日した後、横浜居留地で写真館を開業したイタリア系英国人写真家フェリーチェ・ベアトであるという。
 


横浜写真の創始者とされるフェリーチェ・ベアト
 

来日以前から彼は、幕末の日本各地を旅行し、その風景やさまざまな階層・職種の日本人を撮影。明治元年ごろから作品をアルバムに仕立てて売り出したらしい。

その後、ベアトや下岡蓮杖の流れを継ぐ日下部金兵衛(くさかべきんべえ)やアメリカ人の写真館経営者ファサリによる「ファサリ商会」などが登場。

その活躍が明治10年代中ごろからの勃興期、20年代から30年代前半の全盛期を作り上げていく。



「横浜写真」の価格は?



では実際に、当時の横浜写真はどれぐらいの価格だったのか。集めた資料によると、1892(明治25)年の1銭は約20円で、彩色写真の価格は下記の通り。

●10×8インチ彩色写真1枚:20セント(当時約29銭:現在約580円)
●50枚組アルバム(蒔絵表紙):20ドル(当時約29円:現在約5万8000円)
●100枚組アルバム(蒔絵表紙):31ドル(当時約44円:現在約8万8000円)

当時日本酒1升の価格が約15銭(現在約300円)だったというから、「横浜写真」が実に高価な代物であったことがわかる。
 


明治時代の写真画の輸出額
 

さらに、上図『大日本外国貿易年表』よる「写真画」の輸出額の推移に注目。明治10年代後半に1000円代であったものが20年代に入り大きく増加していることから、全盛期の繁盛ぶりが伺える。

また、輸出港別の数値を見ると横浜が圧倒的に多いこともわかる。