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かつて新子安にあった海水浴場はどんな感じだった?

ココがキニナル!

昔の新子安は海水浴場で有名で、昭和初期までにぎわっていたそう。夏は京急も特別ダイヤで運行し、新子安駅から海水浴場までの道沿いには露店が軒を並べていたそう。当時の様子を知りたい(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

京急が1909年に埋立地に開設した「新子安海水浴場」は、休憩所や桟橋も備え人気を集めたが、工場の増加にともない20年ほどで幕を降ろした

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ライター:永田 ミナミ

海水浴場誕生



それでは新子安に海水浴場が開設されたのはいつなのかというと、埋め立てが終わったか終わらないかのその1909年なのである。砂浜が消えたら海水浴場が誕生したとは何とも逆説的な話だが、『京浜電気鉄道沿革史』には次のようにある。

一般の郊外に於ける交通機関の発展は、主として沿線開発に依るより外はない。我が社沿線は東京及横浜両市膨張に伴ひ、当然開発せらるべき地であったので、会社として之に拍車をかくべく種々の計画を樹てた。即ち明治四十二年(中略)夏期には報知新聞及東京毎日新聞社と協力して羽田、大森及新子安に海水浴場を開設して京浜間の浴客を吸収した。海水浴場の開場式は明治四十二年七月十日午前十時から羽田海水浴場の広場で挙行され、多数名士の来臨を忝(かたじけの)うした。(後略)

海水浴場は自然発生的にできたものではなかった。埋め立ては終わった直後は工場や倉庫がつくられず、なかば空き地のような状態になっていた守屋町に目をつけた京浜電気鉄道が、沿線開発事業の一環として、1909(明治42)年夏に、報知新聞、東京毎日新聞社とのタイアップで開設したものだったのである。

京浜電気鉄道は新子安以外にも、同時に羽田と大森にも海水浴場を開設し、7月10日には羽田海水浴場で開場式がおこなわれ、大隈重信や、のちに南極探検をおこなう白瀬矗(のぶ)らが招待され演説をしたというから、海水浴場は一大観光事業だったことがうかがわれる。

もうひとつ重要な点は、新子安駅の開業が海水浴場設置の翌年だということである。1905(明治38)年の京浜間全通から5年遅れた1910(明治43)年3月27日の開業は、子安村の発展のために私有地が寄付されることで可能になった。
 


1943(昭和18)年「京浜新子安」に改名、さらに1987(昭和62)年「京急新子安」となる


乗客の利便性を高めてより多くの海水浴客を集めようという意図があったようだが、将来工業地帯が形成されれば、その従業員のための最寄り駅となるわけで、一石二鳥的開業だったといえる。
 


この激細ホーム、確かにむりやり捩(ね)じ込んだ感がなくもない


ちなみにJR新子安駅が後者の目的で設置されたのは戦時中の1943(昭和18)年であり、京急よりだいぶ遅れての開業だったが、後からやって来た国鉄が「新子安」の名前を取り上げる感じで、京急は「京浜新子安」に改称させられてしまったという経緯がある。



にぎやかな夏があったころ



1913(大正2)年に出版された『横浜商業遊覧案内』の「京浜電車沿道案内」には、次のように記されている。

新子安泳場
夏は尚善(なほよ)し冬も亦佳(またよし)。凉客(なつになると)集まるの時地所一坪一月の賃料(ぢだい)三圓以上を要す、詳(くはし)くは云はずも其繁昌思ふべし。常時(ふだん)水明楼(すいめいろう)なる料理店あり、安直新鮮を供す。泳場(およぎば)は三百間の桟橋の先に設けらる。停留場あり。

この「凉客」と書いて「なつになると」と読ませる洒落た小冊子からは、海水浴場が長さ550メートルほどの桟橋の先に設けられていたこと、また「水明楼」という割烹料理店があったしていたことがわかる。
 


「旗風(大桟橋と大バラック)」(横浜市中央図書館所蔵 提供)


1坪あたりの賃料が月額3円(現在の約1万円)以上にもなり、説明するまでもなく繁昌ぶりは想像に難くない、と記されているから、露天の競争率はかなりのものだったことがうかがわれる。

ちなみに大正3年の東京板橋で3DKの家賃が5円20銭とある(『値段の明治大正昭和風俗史』朝日文庫)。大正2年発行の雑誌『生活』に出てくる3DKの住居が《6畳2間+3畳+勝手》とあるから6坪とすると1坪1円15銭ほどであるから、1坪3円がいかに高額かがうかがえる。

海水浴場の盛況ぶりを伝える 記述は『京浜急行百年史』にもあった。

明治末期の埋め立てで生まれた新子安海水浴場は遠浅で干潮時には沖まで潮が引き、満潮時には足が立たなくなるほどだった。東京からのお客も多く、大正時代から昭和初期まで大いに賑わった。京浜急行の新子安駅からの沿道には水着や海水帽などを売る露店が並び、海辺には活き魚料理と潮風呂がキャッチフレーズの割烹旅館「水明楼」が繁盛していた。夏場は新子安海水浴場行きの特別ダイヤが組まれ、子安通の街はにわかに活気づいた。その現在地はJVCケンウッド(かつての日本ビクター)、JX日鉄日石エネルギー横浜製造所、日産自動車、安田倉庫、大日本明治製糖、昭和電工などの大企業の工場群となる。
 


今にもにぎやかな声が聞こえてきそうな「人の山人の浪(蜜柑拾ひ)」
(横浜市中央図書館所蔵 提供)


1926(大正15 )年6月10日の『京浜電鉄ニュース』には「理想的海水浴場は羽田穴守・新子安」という広告もあり、写真には多くの海水浴客が見える。
 


「新子安ゆき」「穴守ゆき」の切符と海水浴場の写真広告


水明楼と桟橋の位置関係を特定できないかと思い、できる限りの資料に目を通し、横浜開港資料館や京急電鉄にも問い合わせてみたが、開港資料館で水明楼の地番が「子安町2967」であることがわかったのみだった。

そんななか、水明楼を海側から眺めたらしい写真を見つけだのだが、権利の関係で掲載することができなかったので模写してみた。
 


水明楼の手前は、首都高によって埋め立てられる前の入江川だと思われる


桟橋の奥に渡り廊下が見えることから、水明楼は桟橋の両側に店舗を構えていたのではないかと思われる。桟橋については正確な位置が判明しなかったが、水明楼付近から入江川を越えて伸びていたとすると、三百間(約550メートル)ではそのまま埋立地を突っ切って海に飛び出してしまう。

三百間は誇張なのかもしれないが、実際に三百間あったとした場合、さまざまな情報から推測すると、位置関係は以下のようになるだろうか。
 


緑が桟橋、黄色が休憩所、白点線が露店、紫が大バラック、ピンク色が水明楼




にぎやかな夏が去ったころ



さて、大人気の新子安海水浴場だが、1933(昭和8)年検閲済の『京浜湘南沿線案内』にある「理想的海水浴場と海の家」を見てみると

羽田穴守社営海の家と東洋一浄化海水プール、大温浴場(千人風呂)
金沢海岸及馬堀海岸 社営「海の家」
大森海水浴場、森ヶ崎海水浴場、富岡海水浴場、逗子、葉山海水浴場、久里浜、三崎海水浴場。

となっていて、新子安の名前がなくなっている。どうやらこの間に新子安海水浴場は消えたようだ。では1933(昭和8)年までの間に何が起こったのか。それは先ほどの『横浜市町名沿革誌』を見てみるとわかる。

恵比須町
臨港工業地域構成の目的より、横浜市は守屋町、生麦町の地先公有水面641,438坪の埋立允許(いんきょ)を得、昭和2年6月2日横浜開港記念日を以て其起工式を挙げ、之を3地区に分ち、第1地区113,412坪の埋立完成せしより、昭和8年3月22日縁起を祝ふて町名を付す。
 


1927(昭和2)年開始の埋立工事が1933年に完成し、恵比須町となる


恵比須町がつくられたということは、守屋町にはもう用地がなくなっていたことを意味する。このときはすでに千若町や出田町も埋め立てられており、1927(昭和2) 年ごろには「タンクの油漏れや船の重油などで、とても海水浴できるような状態ではなくなってしまった(『かながわ区物語 海・緑・街・人』)」というから、一帯はすっかり工業地帯になっていたようだ。

その後、前述の1933(昭和8)年までの間に海水浴場は閉鎖されたが、京急に問い合わせても正式な資料は残っていないとのことだった。
 


「『奇麗な水』(底まで透通ってる)」は工業化の波のなかに消えていった
(横浜市中央図書館所蔵 提供)
 

「男も女も(水泳練習所の生徒)」(横浜市中央図書館所蔵 提供)


『かながわ区物語 海・緑・街・人』には、海水浴場は「それでも震災(関東大震災)ちょっと後までは続いたと思う」とあるから、1923(大正12)に、守屋町1丁目に覆いかぶさるように完成した出田町の影響も大きかったと考えられる。

「1927年ごろ」は1928年を指すのかもしれないし1929年を指すのかもしれない。もしかしたら「理想的な海水浴場」と広告で謳っていた1926年にもすでに海は汚れてきていたのかもしれない。

現在のような環境基準も意識もなかった当時、汚れてきたから即閉鎖としたのではなく、汚れたことで海水浴客が少なくなったから閉鎖した、と考えると、閉鎖は1928〜29年ではないかと思われる。

時代は第一次世界大戦の特需で重工業化が大きく進んだころであり、また、震災からの復興の過程で、東京から多くの工場が移転してきたこともあり、水泳の練習ができるような海が消えていくのは時間の問題だったと言えるだろう。

海辺にあった「水明楼」はこのころ、温泉街である綱島に移転し、長らく旅館として営業していたが、残念ながら1994(平成6)年に閉店している。