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野毛の街の歴史について教えて!【前編】

ココがキニナル!

戦後まもない野毛周辺の街並みが気になる。今もあるお店の中で一番古いのは!?(とっくんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

江戸時代漁村だった野毛は、開港後に人でにぎわい、震災を乗り越え、戦後、焼け野原の野毛に開かれたマーケットをきっかけに、一大繁華街となった

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ライター:永田 ミナミ

道路と寺社と鉄道と



それまで海路が主な交通手段だった東海道神奈川宿と横浜、関内(居留地)を結ぶため、1859(安政6)年の開港3ヶ月前に工事を開始して開港の前日に完成するというギリギリ突貫工事でつくられたのが「横浜道」である。
 


この横浜道が野毛の発展に重要な役割を果たす。黄色点線は野毛の切り通し
 

野毛の切り通しから野毛坂、野毛本通り、都橋を抜けて吉田橋まで延びる横浜道と、埋め立てられた鉄道の軌道沿いにつくられ「新街道」と呼ばれた道路は、小さな漁村から活気ある繁華街へと発展する大きな契機となった。開港に向けて付近には奉行所(現在の神奈川県立青少年センター)や役宅が建ちならび、大田村(現在の日ノ出町)には太田陣屋(じんや)が設けられた。明治に入るとそうした幕府施設は新政府の手に移り、野毛山には開港後に富を得た生糸などを扱う横浜商人の邸宅がならんだ。
 


野毛坂の交差点に面する遺構、旧平沼専蔵(せんぞう)邸の亀甲積(きっこうづみ)擁壁
 

1868(明治元)年には、野毛山に時刻を知らせる鐘楼が建てられ、1870(明治3)年には伊勢山皇大神宮、1876(明治9)年には太田村普門寺に置かれていた成田山横浜別院延命院が野毛山に移転、一寺となった。延命院は「野毛不動」として信仰を集め、毎月1日、15日、28日の縁日には見世物小屋や露店がならび大変なにぎわいを見せた。

また、もとは都橋近くにあり、1888(明治21)年の火災で焼失後、区画整理現在のちぇるる裏手に移転したが、空襲で焼失した戦後、伊勢山皇大神宮に祀られている子之(ねの)神社や、1544(天文3)年あるいはそれ以前から現在の横浜市中央図書館付近にあったが、戦後、西区に移転した大聖院(日明山宝泉寺)など、多くの寺社が集まった。
 


ちぇるる裏には、子之神社があった場所を示す案内板がある
 

子之神社は古くから野毛地域の守護神として信仰を集めていた

 

ほかにも学校や病院、遊郭や造船所、瓦斯(がす)局など、野毛とその周辺に活気をもたらした要因は枚挙に暇がないが、明治期の野毛は大佛次郎の言葉が簡潔にまとめているだろう。

「いまのように商店街がぎっしりと並んだ浮ついたにぎやかさはなく、どこかのんびりとした静かな町でした。東海道からぬける道すじなので、旅人相手の宿屋も数軒残っており、往来に面して、しもた屋(一般の住宅)が多かった。野毛通りの四つ角にある栗原薬局が親せきなので、子供のころはちょいちょい遊びに出かけた。
 古本屋も二、三軒あったが、表通りはそれほどにぎやかでなく、むしろ不動尊から吉田町に通ずる道のほうが開けていた。裏街へ一歩入ると外国渡航前の移民宿が多く、いまのようにバーや料理屋は見当たらなかったね」(『横浜今昔』)
 


明治時代の野毛本通り(提供:苅部書店 苅部正氏)
 

このようにして野毛地区は、大正時代後期にかけて、(1)臨海地域は桜木町駅を中心とした公共施設、(2)花咲町を中心に桜川、大岡川沿いは問屋街、(3)野毛山は高級住宅地、(4)医者、弁護士、商館勤務者が集まった日ノ出町〜初音町地域、(5)野毛坂から都橋にかけては商店街、裏通りは労働者の住居、というように、ある程度地域ごとに特徴が現れる街並みを形成しながら発展していった。しかし、そうした街並みは、1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって、ほぼすべてが倒壊、焼失することになる。
 

立ちあがる野毛


 
1丁目から3丁目にかけて一直線に地割れが走り、火災によって一面焦土となった野毛は、ほかの地区同様、多くの犠牲を払ったが、いち早く復旧した鉄道をはじめ、官民一体で復興が進められた。復興の最大の成果は、地主が土地の2割を出した土地の区画整理であった。このときの区画整理でつくられた街区は、そのまま現在の野毛の街に残っている。
 


緑色部分の曲線的区画は、桜木町から保土ケ谷へ延伸予定だった鉄道用地跡
 

この区画整理によって不整形だった宅地や袋地、狭く複雑な路地が整えられ、道幅は最も狭いものでも6メートルが確保された。これにより人の往来がしやすくなったほか、道路に面している場所が多くなり商売の適地が拡大した。桜川は18メートル、大岡川は22メートルと川幅も拡張され、物資の積み降ろしの利便性が向上された。

また、震災復興事業の一環として1926(大正15)年には、原善三郎・茂木惣兵衛邸の庭園を中心とした2万7515坪の土地に、野毛山公園が完成した。

ほかにも横浜公園内の仮閲覧所で1921(大正10)年に開館したものの焼失した横浜市図書館が、現在地の旧老松小学校跡地に竣工したのが1927(昭和2)年であり、震災のちょうど1年後に開館した横浜市震災記念館が、2度目の移転で老松町に図書館の別館として建てられたのは1928(昭和3)年、といったように大型の公共施設が相次いで開業した。

 


公立図書館では国内5位の規模を誇る、現在の横浜市中央図書館は1994(平成6)年開館
 

交通機関としては横浜市電が段階的に開通していたが、忘れてならないのは震災復興計画の1つとして組み込まれた湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)の敷設と黄金町、日ノ出町の2駅の開設である。1917(大正6)年に申請した免許が1923(大正12)年1月に認可されたものの、震災によって進展が止まっていた事業は、1925(大正14)年に会社設立、1927(昭和2)年に起工し、1930(昭和5)年に黄金町〜浦賀間が開通する。

その後、東急の桜木町延伸案と京浜電鉄(現在の京急電鉄)の日ノ出町延伸案(横浜〜日ノ出町間は京浜電鉄が敷設)から後者を選択し、1931(昭和6)年に日ノ出町〜黄金町間が開通、京浜電鉄と連絡した。この私鉄開業により、野毛を含めた周辺地域はふたたび活気とにぎわいを取り戻す。

 


日ノ出町駅ホームの三浦半島が描かれた柱は開業当時のものともいう
 

しかし、1930年代に入ると、1933(昭和8)年には野毛町に憲兵隊が駐屯し、1938(昭和13)年ごろからはガソリン規制によって木炭バスが走りはじめるなど、しだいに戦争の色が濃くなっていく。

1941(昭和16)年には市街地を見降ろす野毛山に横浜連隊区司令部が開庁し、震災記念館からは金属製の展示品が供出。1942(昭和17)年には野毛山不動尊の水行場、1943(昭和18)年には掃部山の井伊直弼像が金属回収となった。

戦時下の野毛は、要塞地帯の一部となったため、写真撮影はおろか、歩きまわることさえ許されなくなった。野毛山には高射砲が設置され、図書館は一部が陸軍に徴用、屋上は監視哨に使用され、人々は商店街や歩道、住宅地に防空壕を掘った。

そして1945(昭和20)年5月29日、野毛はふたたび焼け野原となった。

 

ふたたび立ちあがる野毛



さて、ついに戦後である。市街面積の42%を焼き尽くしたこの横浜大空襲によって、野毛とその周辺は、税務署、横浜市図書館、桜木町駅舎など、震災復興で建てられたいくつかの建物を残して焦土と化した。

 


野毛山不動尊から見た焼け跡。1945(昭和45)年9月6日
(提供:横浜市史資料室)※クリックして拡大
  

手前の野毛町、宮川町はバラックが建ち並ぶ。奥が関内、奥右手が伊勢佐木町
(提供:横浜市史資料室)※クリックして拡大
 

8月15日の終戦後まもなく30日にマッカーサーがホテル・ニューグランドに到着すると、9月から関内や伊勢佐木町1、2丁目、羽衣町、若葉町、福富町、横浜公園など、市の主要部の土地建物が次々に米軍に接収されることになる。

そんななか、接収を免れた野毛は、終戦まもない10月11日の市再建計画において、税務署(現在のにぎわい座)前から花咲町にかけて商店街とすると決定された。「野毛地区の戦後は、この計画から始まった」と『横浜・中区史』にはある。
 


赤い部分が現在の花咲町、現在の桜川新道はまだ桜川だった
 

たしかに、野毛の戦後はここから始まったといっていいだろう。1945(昭和20)年11月10日に、県・市・露天商組合が、野毛の通りに露店をならべて開業したマーケットには、多くの人が集まるようになる。「ザキや関内の目抜きは接収され、元町では遠すぎ、山下町は外国人の本拠地ということから、野毛以外に好都合の場所はなかったからであった(『横浜・中区史』)」。
  


野毛のマーケット(提供:苅部書店 苅部正氏)※クリックして拡大
 

都橋付近から花咲町にかけてマーケットの露店がにぎわうと、それに呼応するように、桜川沿いには飲食の露店がならびはじめる。ここはクジラ横丁やカストリ横丁と呼ばれた。ちなみにカストリとは「米または芋から急増した粗悪な密造酒(『広辞苑』)」である。

にぎわう露店は、基本的には闇市である。戦後は食料品など多くのものが統制下にあり、仕入れることも販売することも禁止されていたが、野毛には「野毛に来れば何でもそろう」と言われたほど、そうした規制品が充実していた。生きるために必死だった当時の人たちは、親戚や知人のつてを頼りに鉄道で遠くまで仕入れに出かけ、監視の目をかいくぐって持ち帰り、露店に商品をならべたのである。

ちなみに今の野毛にふぐ料理店が比較的多いのは、ふぐが統制外だったので自由に扱えたことと、1945(昭和20)年に開業し、今も残る「村田家」の先代主人が、下関でふぐ料理の修業をしていた経験を生かし、野毛でふぐを扱うすべての店に親身に指導したことによる。
 


現在の村田家。昨年、木造家屋を維持して改築された
 

1946(昭和21)年夏に国電が復旧すると、桜木町駅前には、近在からやってきて野菜の切れ端などを使った雑炊やすいとんを売る露店が20軒ほどならんだ。しかし、接収地に近いことから米第8軍に不衛生さを指摘され、警察が取り締まることになったが、人々の困窮を知る警察が徹底的な排除は行わなかったため、追い払っても露店はすぐにもとの場所に戻ってしまう。

そこで、当局は桜木町の露天商をまとめていた人物に相談し、代替地が必要ということになった。それを受けた第8軍が、野毛を振替先に指定すると、その人物はまだ焼け野原だった現在の野毛坂交差点に板を張って品物を並べたという。

野毛坂の露店は当初その1店舗だけだったが、やがて1ヶ月もたたないうちに、野毛坂一帯にも、あらゆるものがそろうマーケットができあがった。
 


多くの人でにぎわう野毛坂。奥には横浜市図書館も見える
(提供:苅部書店苅部正氏)※クリックして拡大
  

さらに都橋寄りから野毛山を望むとこんな感じ(提供:横浜市史資料室)※クリックして拡大
 

逆に野毛坂の交差点から関内方面を見降ろすとこのような眺めが広がっていた
※クリックして拡大