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横浜の父! 高島町の名前の由来にもなった「高島嘉右衛門」ってどんな人だったの?

ココがキニナル!

材木商・高島嘉右衛門を知りたい。インフラ整備に尽力し、「横浜の父」とも呼ばれ、「高島易断」を創り上げ易者の開祖とも。ゆかりの地など巡り、横浜に与えた影響について教えて。(maniaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

高島嘉右衛門は幕末から明治にかけて活躍した実業家。横浜の埋め立てやガス灯建設などで功績を残す。一方で易の達人として多くの政治家をサポート。

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ライター:松崎 辰彦

嘉右衛門と易

高島嘉右衛門を語る上で、易の存在を見過ごすことはできない。
易とはいうまでもなく中国の古典『易経』を聖典とする占術であり、筮竹(ぜいちく)と呼ばれる竹の棒を手にして個人や集団の運命を占うものである。

彼が易に取り組むようになったきっかけは、牢獄で誰かが残していった『易経(えききょう)』を手にとるようになってから、といわれている。
 


獄中で『易経』と出会う


嘉右衛門が易に造詣が深く、おりに触れて筮竹を取り出して未来を占ったことが、彼の伝記にはくわしく書かれている。
彼が残した占術実践録は、易を学ぶ者にとってこの上なく貴重な資料とされ、一種教科書のような扱いを受けているという。
嘉右衛門の経営する高島屋には政府要人が多数訪れ、彼に占断(せんだん)を依頼した(唯一、易を好まないのが西郷隆盛だったという)。

特に嘉右衛門と親密だったのは日本の初代総理大臣である伊藤博文で、自分より9歳若いこの人物がまだ新政府の最年少役人の一人であったころから、嘉右衛門は着目していたともいわれており、のちに嘉右衛門の長女が伊藤の息子と結婚するという親戚関係になるほど、二人の仲は近しかった。
 


伊藤博文(フリー画像より)




伊藤の死を易で予見する

伊藤は1909(明治42)年、中国・ハルビンで狙撃され、絶命したが、このことを嘉右衛門は占断によって予見し、伊藤に旅行をとりやめるよう懇願した。
嘉右衛門の声を振り切り伊藤は満州へと旅立ったが、やがて事態は嘉右衛門が恐れていた通りになった。高木彬光(あきみつ)『大予言者の秘密 易聖・高島嘉右衛門の生涯』では、嘉右衛門は最後、“せめて名前に『艮』や『山』のつく人物は絶対にそばに近づけないように”といって伊藤を送り出したことになっている。

伊藤を狙撃したとされ、逮捕された人物の名前は「安重根」(あんじゅうこん)であった。
 


ハルビン駅(フリー画像より)


また嘉右衛門は日露戦争でも戦局に応じて筮竹を手にとり、結果をときに新聞に発表して、あまりの的中率に日本中が瞠目(どうもく:驚いて感心すること)したとも伝えられている。嘉右衛門はこうして日本随一の易の達人として知られるようになったのである。



易学から見た嘉右衛門

嘉右衛門が行動の指針としていた易学。中国発祥の占術だが、一般の私たちにはそうそうなじみがない。
易の専門家の方々に「易者としての高島嘉右衛門」について聞いてみた。
「易とは神聖なものです。人生には選択をしなければならないときがあり、ある人はカウンセリングで、またある人は宗教を基準にして選んだりしますが、そうした選択の一つの指針として易というものがあります」
こう説明してくれたのは公益社団法人日本易学連合会(日易連)の藤懸庚汪(ふじかけこうおう)氏。海外の大学で心理学を研究・教授していたが、日本に帰って西洋の科学では測れない易の深遠さを悟り、現在は日本易学連合会の専務理事として易の発展に力を注いでいる異色の人物である。
 


左から井上湖悠(こゆう)さん、藤懸庚汪氏、上島慶晃(けいこう)さん


藤懸氏はいう。
「易は根拠のある学問です。易者を国家資格で認定している国もあるほどなのに、日本ではそこまでの理解がないのが残念です」
日本人の大半が占いの一つとしてしか捉えていない易だが、本当の易はもっと深いものであり、人間が生きる上での哲学なのですと強調する。

高島嘉右衛門の易について、日易連副理事長の上島慶晃さんは
「占う相手に対してさまざまな質問を投げかけ、多くの情報を得て問題点を整理整頓してから占ったといわれています。相手がどんな勉強をしてどんな学校を出て、どんな人と結婚して家庭はどのような状況であるかなど、結構細かく聞いたということです」

占うテーマを「占的」というが、嘉右衛門は質問を通して占的を明確にすることが絶妙に上手だったのだという。そこには嘉右衛門の比類なく豊富な人生経験があったからであろうと藤懸氏は推測する。
 


嘉右衛門の邸宅があった神奈川区「かえもん公園」


「政治、経済、宗教──彼は何にでも対応できたんです。それには栄耀栄華(えいようえいが)を極めたかと思えば牢獄で呻吟(しんぎん)するといった、甘いも辛いもすべて体験した人生経験があったからだと思います」
嘉右衛門の易を求めて明治の政治家は頻繁に高島屋や彼が隠棲(いんせい)した大綱山(おおつなやま)を訪れたが、一つには彼に悩みを託すと目の前で絡んだ糸が解けるように問題点が明確化され、可視化される爽快感があったのだろう。嘉右衛門は現代でいうカウンセリングの達人でもあったのだ。

嘉右衛門は同時並行でいくつもの事業を進行させたというが、そうしたことができたのもプロジェクトの要所要所を過不足なく把握していたからであろうし、いずれにしても彼に接した人はみな、その優れた頭脳に舌を巻いたことは疑いない。
「嘉右衛門は問題の交通整理が上手だったのだと思います。彼の残した占術の記録は、現代の私たちにとって大切な教科書です」
 


易者としての嘉右衛門を讃える碑


上島さんは説明する。嘉右衛門を現代の易者の開祖というのは必ずしも適切ではないが、しかし彼が日本の易に残した影響は大きいという。
「易は宇宙とつながることですよ。自分に届いたメッセージを解読するものです」
同じく日易連副理事長の井上湖悠さんはいう。人生経験とともに、易神にもたずねるということですと強調する。
 


易を実践してくれる井上さん


嘉右衛門はこのいずれにも優れていたのであろう。
「易は戦争でも使われ、命がけの判断を託されてきました。そうした血を流した結果、生き残ったたしかな学問なんです」
藤懸氏はいう。嘉右衛門の筮竹は日本の、そして世界の命運を占っていたのである。

横浜を作った男、高島嘉右衛門。この人物がいなかったならば横浜の、日本の発展は数十年遅れていたかもしれない。



取材を終えて

高島嘉右衛門は横浜の近代史をひもとくとき、必ず遭遇する人物である。にもかかわらず全国的な知名度は決して高いとはいえず、幕末から明治にかけての横浜の実業家といえば原善三郎や茂木惣兵衛(もぎそうべえ)がまず思い出され、嘉右衛門の位置づけはその次あたりにくるようである。
 


茂木惣兵衛(『野澤屋から横浜松坂屋へのあゆみ』より 画像提供:イセザキ・モール1・2St.)


しかし嘉右衛門は実業家としての顔のほかに、易に親しみ、宇宙の声を聞く予言者、預言者の顔があった。大きな財を成しつつも財閥形成などには走らず、晩年は筮竹を手に東洋的隠士さながらにみずからは横浜の高台に隠居し、易に没頭する一方で政治家に陰から助言し、天下国家を動かしていたのである。ここにほかの実業家にはない、嘉右衛門独特の魅力がある。彼は天理をわきまえつつ、地上に眼を光らせたのだった。
 


高島山公園
 

望欣台(ぼうきんだい)の碑
 

この場所から嘉右衛門は埋め立て工事を眺め、指揮した


混迷の時代、私たちが嘉右衛門から学ぶことはいくつもあるに違いない。陽気で明るい嘉右衛門の周囲には、多くの人が集まった。易の弟子を採ることはしなかったというが、自分の知識や経験を惜しげもなく人に伝えた。彼が招かれて行う易学の講義は人気が高く、常に満席だった。
大きな苦難に幾度も見舞われつつも、志を貫いた人生だった。今日の横浜の繁栄の陰に、こうした偉大な先人が存在したことを、私たちは心に留めておきたい。
 


晩年の嘉右衛門。1914(大正3)年4月8日撮影(『呑象高島嘉右衛門翁伝』より)



─終わり─


参考文献
高木彬光『大予言者の秘密 易聖・高島嘉右衛門の生涯』(角川書店)
持田剛一郎『高島易断を創った男』(新潮社)



取材協力
横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/index.htm
公益社団法人日本易学連合会
http://www.nichiekiren.jp/pc/
 

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  • 記事掲載ありがとうございます。Web記事の『横浜開港前の嘉右衛門に関しては確たる記録がなく、』部分ですが、父親の出身地(現在の茨城県かすみがうら市牛渡)で、かすみがうら市郷土資料館では、これまでに、2度の企画展を開催しています。下記の展示や飼料からは『天保3年生まれ、安政6年横浜進出以前の取り組みや、慶応2年より英国公使館の建築請負を行う』等々。現在(2015年9月23日まで、『企画展没後100年記念 日本近代化の父 高島嘉右衛門』展(冊子も同タイトル))が開催されています。霞ヶ浦も一望できる郷土資料館です。ぜひとも、現地へお出かけください。追伸以前(2013年)には、『明治維新とかすみがうら市の偉人 ー高島嘉右衛門と飯田吉英の功績ー』(冊子も同タイトル))の企画展が開催されました。

  • 嘉右衛門さんのお墓は赤穂浪士で有名な高輪の泉岳寺にあります、それと記事を読んで高島邸がそこに過去有った様な印象を受けるけど、今もご子息の方がその地にお住まいで、建設当時の建屋もありますし公園は高台にあるので眺めは良いです。

  • 嘉右衛門が占いで名を上げたのは、小伝馬町の牢屋の中で、誰が赦免になるかとよくあてたからだ、と伝記で読みました。またこの牢獄での人脈が横浜開発に大きな力となったということでした。

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