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かつて横浜にあった日本最大規模の貧民街といわれた「乞食谷戸」とは?

ココがキニナル!

横浜市にはかつて、乞食谷戸と呼ばれた大規模なスラムがあったようですが、どんな人がどんな暮らしをしていたのでしょうか。また、今ではどのような街になっているのでしょうか。(みうけんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

明治のころ横浜にやって来た浮浪者がこの南太田周辺に住み、紙くず拾いを始めた。スラム街の状態になったため、公団などにより住居が整備された

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ライター:小方 サダオ

谷戸の周辺住民に話を伺う


 
くず拾いの人たちの話を中心に、周辺住民の方に話を伺ってみた。

とあるお店を経営するKさんは、次のように話をしてくれた。

「1952(昭和27)年ごろ私が子供の時、くず拾いの人たちは近所に落ちている鉄くずを拾っては、谷戸の問屋に持って行って、小遣い稼ぎをしていたよ。水道管の周りには鉛が付着していて、それを外して売ったりした。そこでは段ボールなども回収していたね。朝鮮戦争のころは鉄が必要になったので、儲かっていたそうだよ。東京オリンピック(1964<昭和39>年)のころまでは仕事があったそうだけど、今はやっているところはほとんどないよ。あのあたりの谷戸の人は、人種的に怖い人たちである、といった印象を持っていたね」と答えてくれた。


突然二股に分かれる谷戸の道。複雑な道なのは当時住宅が雑然と建っていたからなのだろうか

            
つづいて平戸桜木道路沿いに住むA・Wさんは、
「1955(昭和30)年ごろ、この町に芝居小屋があったのを覚えています。周辺の住民のための一座で、全国にも巡業に行っていたようですよ。そのころバラックは自宅の裏の方にたくさんありました。くず拾いをやっているバラック住まいの同級生もいました。問屋にリヤカーを貸してもらって鉄くず拾いをやっていました。あとは資格がなくてもやれる仕事、ということでペンキ屋などの職人をやっている人たちが多かったです」と話をしてくれた。
 
職人が多かった、というのは、三楽が職人を育てたことの名残なのではないだろうか?
 


山道沿いに建つ平屋建ての住宅 


今も人が住んでいる住宅もある


次にドンドン商店街の裏手にお店を構える榎本さんに話を伺った。
「終戦直後、私が小学生のころ、ここに引っ越してきました。横浜は一面焼け野原で、伊勢佐木町などの一等地は米軍に接収され、カマボコ兵舎がたくさん建ちました。そこを追われた人たちが、この谷戸にバラックを建てて移り住んできたのです。だからここの人口も増え、おかげで商店街が周辺住民相手の商売で儲かったのです。しかし接収が解除になると、みんな元の土地に戻っていったため、この商店街も寂しくなってしまいました」
 


放置されている様子の小さな住宅


「『乞食』というと、終戦直後、教会の裏の崖にあった防空壕の穴に住み着いている物乞いがいて、親父がよく面倒を見てあげていました。あまり物をあげたり、酒を飲ませてあげたりしていたのです。するとその人が死んだ時、身元が不明だったため、警察が来て、『面倒を見ていたようだけどあなたの親戚ですか?』と勘違いされたことがありました」

「また鉄くず拾い屋さんは、1955(昭和30)年ごろまでは忙しそうでしたよ。バラック住まいで、くずを回収しては目方で売っていました。自宅の外にトタン製のちり取りやスコップをしまい忘れていたりすると、翌朝にはなくなっていました。鉄くずの問屋に聞くと、『誰かが売りに来たよ』というようなことがよくありました。確かに泥棒行為なのですが、しまい忘れていた方が悪いともいえますし、仕方がないでしょう」とのこと。
 


崖沿いに建つ清水ヶ丘教会

 
そして谷戸の奥に入った場所にお店を持つMさんに話を伺った。

「私たち夫婦は1965(昭和40)年にここに引っ越してきました。すると警察官である私の父がこれを知ると、私たちはとても怒られました。事情に詳しかった父の話ではじめてこの町が『乞食谷戸』という評判の悪い場所であることを知りました。私立の有名大学などの入試の際、この街の出身と知られると落とされたそうです。

確かにガラの悪い人は住んでいました。当時仕事で商品を後払いで買ったお客の家を集金に訪れると、彼らはお金を払いたくなかったようで、ドスのようなものを床に突きつけて『帰れ!』と脅されたことがありました。後で知り合いに聞くと、昔暴力団関係の人だった、と教えてくれました」とのこと。

ここで持参していた『横濱繁盛記』を見てもらうと、本文に登場する一ノ瀬という人をご存じだった。
 


弘明寺観音


「一ノ瀬さんの子孫だと思いますが、昭和初期ごろ、弘明寺のほうまで一軒一軒お貰いさんをしていた、という話を聞いたことがあります」と答えてくれた。

さらにある路地裏を歩いていた時、空き缶の積まれた平屋の住宅を発見。家の中は荒れ果てていて、人は住んでいないようだ。住人について近所に住むある中年男性に伺うと、

「その家には6年ほど前まで、黒人が住んでいましたよ。近くのペンキ屋がその黒人を雇っていて従業員の住居として借りて住まわせていたのです」とのこと。    
 


ペンキ職人の黒人が住んでいたという家屋
 

この住人は空き缶の回収もしていたのだろうか?

       
すると、そこに年配の女性Sさんが現れた。そこでお話を伺うと、
「私は1934(昭和9)年にこの街で生まれました。父の仕事はペンキ屋で、船の船体を塗っていました。私の夫もペンキ職人でした」と答えてくれた。
 
さらにかつて鉄くず回収の問屋であった場所、「東医院」を発見した。
東医院の関係者によると、「この医院は1958(昭和33)年に建てましたが、以前は小屋の周りにいくつかのドラム缶が置かれ鉄くずが積まれたような、鉄くずを回収するお店でした」とのこと。
 


このあたりに鉄くずの回収問屋があった

 
 
 

同潤会アパートの当時の様子とは


 
同潤会アパートは、谷戸の入り口あたりに中央を通る道を隔てて北側と南側に並んでいた。
事情に詳しいT・Hさんに話を伺った。

「私の親は1942(昭和17)年にこの場所にやってきました。両親は同潤会アパートの管理を任されていて、留守番や電話番や家賃の回収などをしていました。しかし1945(昭和20)年の5月の空襲で、道路をはさんだ南側がすべて焼け、北側だけが残ったのです。私も結婚した時、1971(昭和46)年から1年間、夫とアパートに住んだことがあります。偶然にも以前、作詞家の安井かずみさんが住んでいた部屋でした。
 


正面の久保山と手前の山に張り付く形でアパートが建っていた
 

現在の様子との比較
 

T・Hさんの家があった場所

 
くず拾いの人たちについて伺うと、
「早朝、谷戸の奥からからゾロゾロと、背中にカゴをしょって鉄ばさみを持って、またはリヤカーを引き、くず拾いに行く人たちの姿をよく覚えています。戦後の焼け野原の中を、伊勢佐木町のあたりまで行って、電線や銅線などを集めに行っていたそうです」と答えてくれた。

「くず拾い」や「物乞い」と直接関係のない住民の話からもその様子は伺えるが、「谷戸の人種」と呼ばれていた人たちはどのような心境でいたのか伺えたらと、その仕事をしていた人達を探してみた。