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横浜初の女子校! 横浜出身の大女優「原節子」を輩出した「横浜高等女学校」について教えて?

ココがキニナル!

私立横浜高等女学校は中区の元町にあり、その校舎には女優の原節子が通っていたって本当でしょうか?また山月記を書いた中島敦が教師としていたそうです。詳細知りたいです。(Yokoyokoさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

原節子は横浜高女の生徒だったが、中退しているので資料がない。教師だった中島敦は生徒たちの人気者だった。

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ライター:松崎 辰彦

中島敦も横浜高女の教員だった



「始業時間を何時間か過ぎて、汐汲坂をはま子先生が歩いてこられるでしょう? すると生徒たちは授業中でも窓辺に駆け寄るんです。そして坂を登ってこられる先生に手を振りました。『はま子先生!』って」
 


渡辺はま子
(『あゝ忘れられぬ胡弓の音』より)


そう回想するのは田沼光明氏の母親で、横浜学園4代目理事長・故田沼智明氏の夫人である田沼清子さん。すでにはまれぽ記事「渡辺はま子ってどんな人だったの?」でご登場いただいている。
 


田沼清子さん


歌手・渡辺はま子が、1933(昭和8)年から2年間だけ、横浜高女の講師だったことはよく知られている。はま子は生徒たちの憧れの的だった。“はま子先生は今日はどんなお洋服かしら?”と好奇心を燃やして窓辺に殺到する生徒たちに、授業担当の教師は当然ながら、あきれ顔で「席に戻れ!」と注意したであろう。
 


下段右がはま子。生徒の人気者だった
(『昭和九年三月 第三十三回 卒業記念帖』〈横浜高等女学校〉より)


しかし、一人だけ、坂を登ってくるはま子の様子を生徒と一緒に(おそらく微笑みながら)眺めていた教師がいた。
後の作家、中島敦である。
 


中島敦(1909~1942)
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)


生徒に注意することもなく、自分も窓からはま子のお出ましを眺めていたという。
「別にはま子先生に好意があるというわけではなくて、こうなったらどうせ授業にならないんだから、自分も見物しようということだったんです」
清子さんが解説する。敦は型にはまった考え方を嫌う人物だったようである。



漢学者の孫に生まれて教師に 若くして人生を閉じる



中島敦は、多くの日本人が高校時代に現代国語の教科書に登場する『山月記』の作者として出会う作家である。
 


中島敦『李陵 山月記』(文藝春秋)


詩人として名声を得んとしても思いが遂げられず、発狂し虎に身を変える男の物語は、荒唐無稽でありながら、これから人生を歩もうとする若者の心に深い印象を与える。
 


『山月記』は教科書に採用されている


しかし、それ以上、彼の小説を読み進める人は多くはない。彼の作品は中国に題材をとったものが多く、またその文章も現代人には難解な言葉が頻出し、決して読みやすい作家ではない。

彼を漱石や芥川に匹敵する国民的作家とするのに躊躇を感じるのは、33年という短い生涯ゆえの作品数の少なさもさることながら、その文学のあまりに孤高なたたずまいにあるといえよう。
 


敦には『弟子』『李陵・司馬遷』などの作品がある


中島敦は1909(明治42)年、現在の東京都新宿区に誕生した。
父の田人(たびと)は教師、祖父の慶太郎は「撫山(ぶざん)」の号を持つ著名な漢学者であった。
 


中島敦の祖父、中島撫山(画像提供:久喜市立郷土資料館)


幼少期から秀才で、1930(昭和5)年、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部国文科に入学する。1933(昭和8)年、同大卒業、そして大学院に入学する。
同じ年に横浜高女に教員として就職する(大学院は翌年中退)。国語と英語、さらに歴史や地理も担当する。
 


1年1組のクラス写真 1937(昭和12)年5月(『図説 中島敦の軌跡』より)


教師生活の前半は山岳部を引率したり、職員旅行で登山を楽しんだりしたほか、野球や水泳、ヨット遊びなどもしている。また学校関係の会誌の編集なども担当した。
 


雑誌部の新年会で1937(昭和12)年1月(『図説 中島敦の軌跡』より)


しかし教師生活後半になると、宿痾(しゅくあ)である喘息の発作が度重なるようになり、学校も彼に副担任を付けるなど負担の軽減を図るが、1939(昭和14)年以降は喘息がさらに悪化し、欠勤も増えていった。
 


1938(昭和13)年ごろ 校庭で


1941(昭和16)年4月、ついに体調不良のゆえに敦は横浜高女を休職する。父の田人が代理で教壇に立つ条件だったという。結局6月16日に退職届を出し、8年間の教師生活に別れを告げた。

暖かい南の島ならば健康にいいのでは・・・と考えた敦はその後、南洋庁に就職する。当時、日本の統治下にあった南洋群島(西太平洋の赤道以北に散在する諸島群)の児童が使用する日本語教科書編纂が任務だった。

1941(昭和16)年6月28日にパラオに赴き、当地で「南洋庁国語編集書記」の身分を以て働く予定であったが、到着早々彼を待っていたのは喘息に加えデング熱や大腸カタルといった病気であった。

またホームシックにも陥り、頻繁に家族に手紙を書いている。さらに南洋の島々を視察し、島民に対する南洋庁の方針に疑問を抱き、仕事への情熱を失ったともいわれている。
 


敦の妻・タカ
 

左から妹・澄子、敦、桓(たけし)、父・田人(『図説 中島敦の軌跡』より)


日本の太平洋戦争開戦を知ったのは、サイパン島であった。

彼はすでに教師時代から小説を書き始め、『中央公論』の「新人発掘原稿募集」に応募している(彼の作品『虎狩』〈とらがり〉は選外佳作になった)。『山月記』は1942(昭和17)年に発表された。
 


『文学界』に『山月記』が掲載される 1942(昭和17)年2月(『図説 中島敦の軌跡』より)


1942(昭和17)年の年、彼はほかにも『光と風と夢』『牛人』『名人伝』といった多くの作品を雑誌に発表している。
同年9月、南洋庁を辞職して職業作家の道を歩み始めるが、10月中旬から激しい喘息発作に見舞われ、12月4日死去。33年の生涯を閉じた。