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母乳が泉のように湧き出る!? 瀬谷に伝わる「乳出神伝説」とは?

ココがキニナル!

瀬谷区の東野第1公園の横に『乳出神』という石碑があります。由来を教えてください。(布団から出たくないさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「乳出神(でえーがみ)」は民話に出てくる神様。昔あった湧泉の水でおかゆを焚いて食べると母乳が出たという伝承から、終戦ごろまで参拝者がいた

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ライター:橘 アリー

「瀬谷区の歴史を知る会」の発足から始まった!?
 


「せや・ガイドの会」会長の鈴木さん


まずは、「乳出神」の読み方について。
「乳出神」は、“乳(ちち)”を発音しないで、「でえーがみ」と読むそうだ。
なぜ漢字の“乳”がついているのに発音しないのかは、不明であるとのこと。
昔から、その読み方が伝わっていて、特に、方言のようなものでもないようである。

「乳出神」を“ちちでかみ”や“ちちだしかみ”と声に出して読むのは、ちょっと気恥ずかしいものだ。
昔の人も、そんな気恥ずかしさから、“ちち”を発音しなかった(もしくは、発音しなくなっていった)のだろうか。

そして、“でえー”と伸ばして発音すると、なにやら“乳(母乳?)”がたくさん出るようなイメージがしないだろうか?
 


ミルクを飲む赤ちゃんのイメージ


そこで、「乳出神」とはどのような神様なのか聞いたところ、やはり、お母さんの母乳がいっぱい出ることに関係のある神様であるそうだ。

続いて、「乳出神」の由来について。
「乳出神」は瀬谷に伝わっている昔話のひとつ。昔から口頭で伝承されてきたそうだが、初めて書籍にまとめられたのは1974(昭和49)年5月。そのきっかけは、同年の1月に「瀬谷区の歴史を知る会」を発足したことだったそうだ。

昭和50年代になると、瀬谷の急速な都市開発が進み、郷土の古いものがどんどん失われて、町並みが新しいものに変わっていった。
そんな中、“郷土の歴史を知ることを通して自分たちの住むまちを大切にしよう”という思いから、地域に古くから住んでいる有志によって「瀬谷区の歴史を知る会」が発足された。

そして、「瀬谷区の歴史を知る会」の活動の一つとして、瀬谷に伝わっている昔話を『瀬谷区の民話と昔ばなし』という冊子に編集して発行したそうである。
 


『瀬谷区の民話と昔ばなし』


「乳出神」のお話は、この冊子の中に「東野の乳出神さま」という題名で書かれている。

内容はというと・・・

その昔、東野は北に小高い山々を背負い、あちこちに泉が湧き、いくすじもの谷戸川(やとがわ)が流れる見晴らしのきく住みよい所だった。
その谷戸近くに、仲のよい働き者のお百姓夫婦が住んでいた。この夫婦に赤ん坊が生まれたが、女房の母乳が出なくて困っていて、夫婦は毎日「お乳が出ますように」と祈っていた。

ある日、亭主がいつもの通り畑仕事に出かけたところ、東野の銀杏の木のそばに、まわりの草むらを濡らしてこんこんと湧く清らかな泉を見つけた。 亭主は「この水でおかゆを炊いて食べさせたら、もしかすると乳が出るかもしれない」 と思い、水を竹筒に入れて持ち帰り、さっそくおかゆを炊いて女房に食べさせた。

すると、不思議なことに、今まで一滴も出なかったお乳が出るわ、出るわで大喜び。
「これもあの泉のおかげ、あの泉は乳出神さまだ」 と夫婦は東野の泉にむかって手を合わせた。そのお乳を飲んで赤ん坊はそれからすくすくと育った。
 


奉納された絵馬のイメージ画(『瀬谷区の民話と昔ばなし』より)


やがて、この話が伝わり、近在の人々はもとより、遠くの村々からも、母親たちが 「お乳が出ますように」 と願をかけにきては泉のお水を持ち帰ったという。
泉のほとりの銀杏の木は、ご神木として大切にされ、人々の祈願の絵馬が奉納され、泉の底にはいつもお饌米(せんまい:供え物にする米)やお賽銭があげられていた。

これで「乳出神」は昔話で語り継がれてきたものだと分かった。

また、1980(昭和55)年に「瀬谷歴史かるた」初版が発行され、そこにも「乳出神」が載っている。
ちなみに「瀬谷歴史かるた」は、以前にはまれぽの記事に登場している。
 


「瀬谷歴史かるた」の初版
 


“ゐ”の札が、「乳出神」のもの


なお、『瀬谷区の民話と昔ばなし』と「瀬谷歴史かるた」の絵と文を書かれたのは、冊子の編集委員長をされた小林小太郎さんという方で、現在は亡くなられておられるのでお話を伺うことはできなかった。

次に、その昔話は本当にあったことなのか、そして、泉や銀杏のご神木は本当にあったのか、について。



泉があった場所は!?

鈴木さんによると「乳出神」の昔ばなしはいつのころから語られているのかは不明だが、実在したもののようだ。江戸時代末期には「乳出神大母神」として泉があった東野近辺に祀られ、昭和の戦前のころも多くの参拝者があり、泉のそばにある銀杏のご神木に絵馬が掛けられていたそうだ。
 


かるたの絵にあるような様子だったようだ
 


石碑は、地主の安田義正氏により「東野第一公園」に建てられているが・・・


実際に泉のあった場所は、そこから少し離れた「東野第二公園」の前あたりにあったようである。
 


「東野第二公園」の様子
 


公園の前あたりということなので、黄色い丸の辺りだと思われる


公園の南側には和泉川が流れていて、この近辺で昔は泉が湧いていたのではないかという雰囲気がうかがえる。
 


地図の赤丸のところが「東野第二公園」


そして、地図中の青丸のところに、1926(大正15)年から、1944(昭和19)年に休止されるまで相鉄線(以前は神中鉄道)の「二ツ橋駅」があり、その駅を降りて参拝者が訪れていたそうである。
 


「二ツ橋駅」の跡地の様子




取材を終えて

「乳出神」は昔話だが、泉や銀杏のご神木は本当にあったもののようだと分かった。
 


戦前には、「二ツ橋駅」からこの道を通って参拝に訪れたようだ


参拝者こそ少なくなっているそうだが、「乳出神」のご利益はまだまだ健在かもしれない。
都市開発が進んでも、親から子に注ぐ愛情は変わらない。
そんな温かい気持ちに浸りながら、石碑を見に行ってみては。


―終わり―
 

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  • 昔あった場所が違う。実際にあった場所は赤丸より北側、和泉川の北側には小川が流れていて、和泉川と小川の間には田んぼがあった。その北側の小川の一部が小さな淵の様になっていて、その横に碑が建っていました。今から50年位前の話だけど、既に東野の宅地造成が始まっていて、周りからは土器や矢じり等が発掘されていました。

  • 『でえーがみ』が正しい読み方があったんですね。昔から『ちちでかみ』と普通に読んでました。

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