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川崎にSFの巨大な未来都市? 白亜の近未来的高層団地「河原町団地」とは?

ココがキニナル!

川崎にある河原町団地の昭和のSFの巨大な未来都市のような景観がスゴイと思うのですが文化遺産などにならないのでしょうか?圧倒的な存在感が溢れていてこの空間を作ったコンセプトは貴重(タロー先生のキニナル)

はまれぽ調査結果!

1960年代後半に建設、1972年に入居開始した河原町団地は比較的新しい建築物であり、耐震基準も満たしていて遺産になるのはまだ遠い未来の話

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ライター:永田 ミナミ

建築家、大谷幸夫と河原町団地



東京帝国大学第一工学部建築科在学中から、日本を代表する建築家である丹下健三(たんげ・けんぞう)氏の銀座地区復興都市計画、新宿地区復興都市計画競技設計に参加していた大谷氏は、1946(昭和21)年に卒業し大学院に進学、丹下健三計画研究室に所属した。

丹下健三氏のもとでは広島平和記念資料館や旧東京都庁舎の設計にも参加しながら都市工学の講義を担当する。その後、一度大学を離れるが再び東京大学に戻り、1984(昭和59)年の退官まで教授。その後東京大学名誉教授となる。
大谷氏自身の設計としては、国立京都国際会館、金沢工業大学、東京都児童会館などが知られている。
 


渋谷の東京都児童会館は老朽化を理由に2012(平成24)年に閉館。その後取り壊された(フリー画像)
  

白石市文化体育活動センター(CUBE)などを設計した堀池秀人(ほりいけ・ひでと)氏は『モダニズム建築の軌跡 60年代のアヴァンギャルド』のなかで、河原町団地について以下のように述べている。
 
川崎市河原町高層公営住宅団地では、(中略)独自の高密度集住の考え方が、単純な高層化を抑止する力として活かされている。ここで採用された逆Y字のユニークな形態は、周辺へのスケール・リダクションを計りながら適度なアーバニティを獲得しており、30年ほどたった現在でも、高密度化が起こった周辺の中にあって、表情豊かな都市風景を醸し出している。(『モダニズム建築の軌跡 60年代のアヴァンギャルド』)
 
ここでいう「スケール・リダクション」とは、垂直に切り立つ高層建築とくらべて逆Y字がつくる傾斜によって圧迫感が緩和される、という意味であろう。「アーバニティ」は「都市性」であるから、直方体の14階建て住棟を建てる場合と比較して、圧迫感が緩和されながら同時に都市的性格と景観を持たせることに成功しているということである。
 


そしてこれがまさにその光景である
 

同著ではそのあとに横浜市青葉区の桜台ビレジや世田谷美術館などを設計した建築家・内井昭蔵(うちい・しょうぞう)氏と大谷氏との対談が続き、そこでも河原町団地ついて触れられている。
 


こちらが集合住宅の名建築のひとつ、桜台ビレジ(フリー画像)
 

内井氏の「川崎の河原町住宅も(中略)京都の国際会議場の空間のとらえ方やなんかとも非常に関連性を感ずるんですが、あそこの空洞について一言」という質問に、大谷氏は以下のように答えている。

あれこそ京都の国際会議場(国立京都国際会館)に類似していますが、金沢工大はユニット(さまざまな形態の教室や研究室)を重ねて中にインテリアのボイド(空間)をつくっていきますね。それを川崎の住居でやった一つの理由は、あれは公営住宅ですから、住宅の面積が小さいんです。

ちなみにここで述べられている金沢工大のインテリアのボイドとは、さまざまな大きさやかたちの教室や研究室を箱のように組み上げて、その組み上げた内部に空間をつくったものである。「雪国で講義が終わった後」や「雪が降ったとき」などに学生たちが集まるためのスペースとして考えた、と大谷氏は述べている。

そして、もうひとつ類似性を持つ建築物として挙げられている国立京都国際会館は、逆Y字ではないが、逆台形を基調とした建物の形状に河原町団地と共通するものを見ることができる。
 


1997(平成9)年に京都議定書が採択されたのは、ここ国立京都国際会館である(国立京都国際会館提供)
 

この壮大で未来的な建物はウルトラセブンで地球防衛隊の基地としても登場した(国立京都国際会館提供)
 

国立京都国際会館のウェブサイトに「合掌造か神社の社殿を彷彿とさせる」とあるように、鉄筋コンクリートの近代建築ながら、日本建築の趣を持つこの建物は、1998(平成10)年に選定された「公共建築百選」にも選ばれている。
ちなみに横浜市からは「神奈川県立音楽堂」と「横浜人形の家」が「公共建築百選」に選定されている。
 


そしてこれが内部から見た京都国際会館。メインホールの様子である(国立京都国際会館提供)
 

国立京都国際会館は1963(昭和38)に実施設計を開始し1966(昭和41)年に完成、金沢工業大学は年に全体計画ならびに第1期の設計が1967(昭和42)~1969(昭和44)年である。そして同じ1969(昭和44)年に「川崎市河原町高層公営住宅団地基本計画」に着手する。

そして翌1970(昭和45)年、河原町団地の第1期設計、同県営・市営住宅設計、同小学校・保育園の設計が開始するのである。
 


建物のなかの「広場」


 
さて、雪国の金沢工業大学では屋内に学生が集まる「広場」をつくった大谷氏は、国立京都国際会館では「フォーマルなものが会議場。ラウンジはインフォーマルな会議、階段、交流が行われる広場のような空間」と述べており(国立京都国際会館ウェブサイトより)、「広場」に対する意識というものを常に持っていることが分かる。
 


国立京都国際会館ロビーの様子(国立京都国際会館提供)
 

その「広場」については、先ほどの内井氏との対談のなかで「今の都市の中で、庭とか広場はどうお考えでしょうか」という問いに以下のように答えている。

僕(にとって)は「広場」というのは確定できないもののための場としてある。確定できるものは施設になるし、建築になり得る。だけど、今、生まれたばかりのアクティビティは評価ができない。新しい芸術運動なんかもそうでしょう。「あいつ何をやっているんだ」というような、変なことをやっていますでしょう。だけど、「こんなもの意味がないからやめちまえ」と押しつぶさない。黙ってそれを育むこと。だから、広場は確定できないもののための場としてあり、都市の貴重な資質なんだと思う。もちろんそれだけじゃないけど…。
 
それに対する内井氏の「今の建築は、その確定できないものを入れる余地がないですね。やはり中庭だとかアトリウムとか、ずいぶん形骸化してしまったけれど、ああいう共有空間をどうやってつくっていくかを考えることが大切だと思います」という発言には、大谷氏は「最近はへたをすると広場までが施設になっちゃう。お役所では広場というと都市施設なんですね。管理の対象でしょう。(中略)だから十分機能できないんです」と述べている。
 


大谷氏が考える広場は、未知のもののための余地であり「管理」の域外にあるのだ
 

そして、河原町団地について、上述の「金沢工業大学と国立京都国際会館との類似性」に続く部分には以下のような会話がある。

(住宅の面積が小さい公営住宅では)見ていると、子供たちも、雨の日なんかは行くところがなくて、狭い家の中に若いお母さんと子供がいて、(中略)子供が動き回ると、隣から「うるさい」なんて言われるし、あれはなかなか大変な状況ですね。

日本は雨が多い国ですから、幾ら公園や広場をつくっても子供が遊べない時が一年の三分の一ぐらいある。それでインテリアの広場をつくった。だけどそのために逆Y字型に変えようとすると、20%近くお金が余計にかかるはずなんです。そうなると家賃に響きますから公営住宅としてはまずい。だから、総額を抑えてあれをやらなきゃいけない。

(中略)それでまず東西面で日照の条件の不利な下層部分に南の日照を与えるために逆Y字型にし同時に、それによってインテリア化した広場を内包させたわけです。また逆Y字型にすると、同じ日照時間で棟数が一棟増える。棟数が増えるから階数を減らすことができる。予算は14階建ての予算になっている。ところが、六割を14階建て、四割を九階建てにできた。

 


つまり逆Y型にすることによって階段状になった1~5階の住戸の日照が確保でき
  

それによって住棟を増やすことができたため、4割の住棟を9階建てにして
 

14階建ての予算のままで雨の日も子どもが遊べる屋内広場を実現できたのだ
 

大谷氏は「予算のトータルは動きませんでした。それでやらせてくれた。そういう事情のもとで実現したわけで、あれはほんとに綱渡りでした」と述べており、逆Y型住棟内部の「広場」実現のためにさまざまな工夫をしたことが分かる。
 


消えた「グリーン・スペース」



また別の資料『大谷幸夫 建築・都市論集』所収の『個と総体』(『建築』1969年11月号一部修正)では河原町団地について以下のように述べている。

川崎の計画では(中略)多次元の問題をはらんでいるが、最終的に、それらを二つのレベルに収斂させようとした。

その一つは、逆Y型の住棟とそこに内容された半戸外空間に表現されている。逆Y型という組織方法は住戸の質の確保と、高密度の集合を同時に満足させるものであり、また、逆Y型の内部空間は建築に内包された都市的社会的な因子の解放として、そして、そのことによって人びとの心理的なプライバシーを保障し、そのうえで新たな主体的な連帯の可能性を開こうとしている。

他の一つは、団地の組織化における十字型に交差したグリーン・スペースである。これは、団地内部を組織づける骨組であると同時に、人びとの戸外生活のための空間である。また、それは団地内部の組織づけのためにだけあるのではなく、歩行者道の確立、学区割りの再編成など、外界としての周辺市街地の秩序づけに対して、それを誘導し補強するためのものである。つまりこの十字型のグリーン・スペースは、団地の内部と外部に関わる幾つかの命題を集約的に表現している。


ここで挙げられている「二つのレベル」は、前者は先述の内容をより抽象的に表現したものであるが、後者でもう1つ新しい要素「グリーン・スペース」に触れている。
 


ただしGoogleマップで見たところ正確に十字型に交差する緑地は見当たらない
 

T字型の緑地ということであればこの部分ということになるだろうか
 

しかし、逆Y型住棟の間のグリーン・スペースらしき場所は、今はアスファルトの下に
 

もともとはこういうグリーン・スペースだったのだろうか
 

上のグリーン・スペースは地図上の赤い矢印の地点から見た風景である
 

また地図上灰色部分、逆Y型住棟の前のやや広い部分は、現在は砂利の広場だが
 

木々は点々とあるのでかつては芝生の「グリーン・スペース」だったのかもしれない
 

よく見るとかつて緑地だったと思われるアスファルトの盛り上がりはいくつもある
 

「団地内部を組織づける骨組」であり「人びとの戸外生活のための空間」であり、また団地内部から「外界としての周辺市街地の秩序」へと「誘導し補強」するための装置として大谷氏が用意した「グリーン・スペース」は、どうしてその多くが消えてしまったのだろうか。
 


もちろん広場や住棟の周辺に「グリーン・スペース」はいまも残っている
 



河原町団地を構成する要素



さて、ここまで資料のなかの大谷氏の発言を見てきたが、河原町団地のあの未来的住棟を生み出したのは、都市工学、都市設計に携わる大谷氏の「日照」と「広場」に向けられた意識に集約されると言えるだろう。
 


住棟の間隔が広く設けられ、逆Y型の住戸にたっぷり降り注ぐ日差し
 

「日照」に関しては『大谷幸夫建築・都市論集』のなかの「日照紛争に関する覚書」において触れている。

「建築が建つことによって起こる隣接地の日照阻害」の問題は「現代建築の在り方や体質に起因」するとし、現代建築がつくる「建物が、地域を構成している従来の建物に比して巨大であり異質であること、また、その振舞いが独善的・排他的であり、環境を独占するものとして在ることによると考えられる」と述べており、その意識の高さがうかがえる。

もうひとつの「広場」への意識については『大谷幸夫建築・都市論集』所収の「都市と建築の文脈を求めて」のなかで「講義でも大分しつこく話していること」と言い「私の基本的手法になった」と述べている「中庭型住居の意味」に見ることができるだろう。
  


ベネチアの風景。手前の建物が「ロ」型の中庭型住居になっている
 

大谷氏は、中庭型住居は「都市の中に社会の単位としてある家族のための拠点としての建築」であるとしている。
住宅はそこに居住する家族の「プライバシーとか、それぞれの固有性とか、そういったものを厳格に保障しなければならない」が「都市という高密度社会の中では、しばしばそれは外界の影響を受けて侵害を受ける」。しかし、外界から切り離された「中庭を確保することによって、外界がどうあろうと、住居としての居住環境は安定」し「高密度社会の中、高密度市街地の中に住居」を確立させることに成功したのが「中庭型住居」だという。

この発言は、先に述べた「逆Y型の内部空間は建築に内容された都市的社会的な因子の解放として、そして、そのことによって人びとの心理的なプライバシーを保障し、そのうえで新たな主体的な連帯の可能性を開こうとしている」と共通するものだろう。