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旧日東倉庫に保存されていた、戦後の日本を変えた「ララ物資」とは?

ココがキニナル!

横浜・新港埠頭にひっそりたっている「ララ物資記念」という石碑がキニナル。「ララ(LARA)」という語感も素敵だが、何か横浜にとって深い歴史的意義のあるもののよう。調査を!(アルミンさん)

はまれぽ調査結果!

第2次世界大戦直後、米国から支給された脱脂粉乳をはじめとする救援物資が「ララ物資」。横浜新港ふ頭にララ物資を積んだ船が着岸、ここから全国へと物資が配られた。

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ライター:ムラクシサヨコ

ララ物資は「LARA」物資(つづき)

―ララ物資について、詳しく教えてください。
ララ物資は、実は、アメリカに住む日系人がスタートさせたものなんです。これはあまり知られていないことなのですが、最初に日本に救援物資をと声をあげたのは日系人です。

アメリカ在住の日系人は戦時中、財産を没収され、収容所に入れられるなどした人たちです。戦争が終わり、身一つで収容所を出た人たちが、自分たちの暮らしもままならないのに、故郷である日本の惨状を知り、物資を送ろうと寄付を集めたのです。


―日系人がそこまでしたのは、何か理由があるのでしょうか。
当時の日系人は、戦時中、強制収容所に入れられていましたが、日本から慰問品としてしょうゆやみそが送られたことに大変感謝していました。サンフランシスコ在住だった日系人ジャーナリストは「その温情を思い起こす時に、自らの持てるものを日本難民に分かち与える気持ちにならざるを得ない」と書き残しています。
 


ララ物資の父と呼ばれる浅野七之助(1894<明治27>年-1993<平成5>、写真提供:盛岡市先人記念館)

 
ちなみに、浅野氏の文中にある「難民」は現在使われている「難民」の意味ではなく「苦難にあった人々」のような意味で使われているとのこと。

―すべて日系人たちの手によるものなのですか?
物資を送ろうという運動をおこしたのは日系人ですが、そこへアメリカ人が協力をして、実現しました。というのも、当時のアメリカで、政府の許可なく日系人が独自に物資を送ることはできませんでした。敵国だった日本に物資を送ることは、難しかったのです。

そこで、政府の許可を得るために、アメリカ人に協力を仰ぎ、キリスト教・クエーカー教徒のエスター・B・ローズ、教会世界奉仕団のジョージ・アーネスト・バット博士、米国カトリック戦時救済奉仕団のフェルセッカー神父の3人のアメリカ人の宗教関係者が人道的な立場から、協力することになりました。この3人がアメリカ政府にかけあい、日本への救援物資輸送が実現したのです。アメリカ国内で食品、衣類、医薬品などの寄付が集められ、1946(昭和21)年に第一号の船が日本の横浜に到着しました。
 


ララ第一号船の前で。バット夫妻とエスター・B・ローズ(右) 『ララ記念誌』より

 
―ララ物資について、あまり知られていないのはなぜなのでしょうか。
輸送された物資は全部まとめて「アメリカ政府から」となっていたので、日系人からの寄付であるとか、クリスチャンたちが尽力したなどということは知らされていなかったからでしょう。

―最近では、インターネット上で「戦後の救援物資はアメリカ本国の余ったものを送っただけ」「日本人の食生活を西洋化させるためのものだった」などという人もよく見かけますが、このあたりはどうなのでしょうか。
うーん・・・。そういった意図もあったのかもしれませんが、当初日系人が寄付を募って物資を集めたことは事実ですし、送られた物資によってたくさんの人が助かったことも事実です。

日系人が集めた物資は全体の約20%です。アメリカの宗教団体や社会事業組織からの寄付と合わせた形で送られたので、そういったものはないとは言い切れないかもしれません。しかし、食料だけでなく、衣類や医薬品なども送られ、焼け野原で何もない日本で、ララ物資のおかげで助かった命も数え切れないわけです。
   


戦後直後、とにかく物資が必要だった(画像はイメージ・フリー画像より

 
―企画展の反響はいかがでしたか。
食料品を積んだダンボールや缶などの容器の実物を展示し、パネルで物資の内訳などを解説しました。お乳が飲めるようにと生きた牛や山羊も送られたのですが「その山羊の世話をした」という方もいらっしゃいました。

実際に、支給されたララ物資の食料を食べて育った方も大勢いるのですが、ララ物資のことを知らない方が非常に多いんです。ましてや、日系人が寄付を募って始まった事業だと知る人はほとんどいません。こうしたことはもっと多くの人に知っていただきたいですし、日系人2世、3世の中にも知らない方が多いので、ぜひ知っていただきたいですね。この企画展は、実際に日系人の方々が物資を送って下さった国々でも開催したいと思い、準備を進めているところです。
 


2014(平成26)年の展示風景(写真提供:JICA横浜 海外移住資料館)
 

脱脂粉乳をつめた缶(写真提供:JICA横浜 海外移住資料館)
 

ララ物資による学校給食(写真提供:JICA横浜 海外移住資料館)

 
―貴重なお話、ありがとうございました。



横浜から全国各地に届けられたララ物資



ララ物資はどのくらいの規模のもので、どういった人たちが関わっていたのか。LARAの代表の一人であるエスター・B・ローズが教師・校長を務めた東京都・港区の普連土学園で、1952(昭和27)年に(当時)厚生省が発行した『ララ記念誌』をお借りすることができた。資料の内容一部を紹介する。
 


エスター・B・ローズ(写真提供:普連土学園)

 
記念誌に掲載された表によると、ララ物資は1946(昭和21)年から1952(昭和27)年まで続き、日本に届いた救援物資総量は、食糧が2522万149ポンド(約1万1440 トン)、衣類、医薬品、靴、石鹸、綿などの物資、山羊2036頭、乳牛45頭。

これらは、アメリカ、カナダ、中南米大陸の日系人やキリスト教関係者から集められたもので、同誌には、日本に送るための古着を集めたり、布団を縫ったりするキリスト教関係者の写真が掲載されている。

膨大な量の救援物資が日本に送られることとなったが、ララ物資を送るために政府に掛け合った2人のクリスチャン、クエーカー教徒のエスター・B・ローズ、教会世界奉仕団のジョージ・アーネスト・バット博士、米国カトリック戦時救済奉仕団のフェルセッカー神父が、ララ代表として日本で支援活動にあたった。

同誌には、ララ物資を受け取った人たちの物語も掲載されている。父親と兄弟を戦争で失った少年が、アメリカからの物資は受け取れないと拒むが「これはアメリカで戦争に反対した人たちが贈ってくれたもの」と教師に教えられ、母親とともにララ物資の衣類を受け取る話などが掲載されている(実際に、エスター・B・ローズは米・国務省に日本の都市無差別空爆中止の嘆願を出している)。

ララ物資に助けられた人は数知れず、各地でララ物資への感謝大会などが多数開かれた。
 


写真「ララ物資の前で両陛下に拝謁」する浅野七之助(写真提供:盛岡市先人記念館)
 

北米日本人救済会感謝状贈呈式(1953<昭和28>年、写真提供:盛岡市先人記念館)

 
昭和天皇・皇后は1949(昭和24)年にララ倉庫を訪れ、皇后が感謝の気持ちを御歌に詠まれている。現在横浜新港埠頭の碑に刻まれているのは、その御歌である。
 


なお、ララ物資については『稲造精神とララ物資』(大津光男著・新渡戸稲造基金)に詳しい

 
興味のあるかたはぜひ一読を。



取材を終えて



ララ物資なるものを聞いたこともなかったが、脱脂粉乳のことは知っていた。

が、てっきりGHQか米国のユニセフかどこかが送ったものかと思っていた。北米、中南米の日系人が立ち上がり、クリスチャンが協力し、寄付を募って送られたものとはまったく知らず、調べれば調べるほど、驚くばかりだった。

強制収容所にいれられ、財産も没収されて身一つになった人たちが、自分たちの暮らしもままならない中で、祖国の惨状を知り力になろうとしたララの運動に、心動かされる。また、3人のクリスチャンの無私の支援活動のスケールの大きさにも驚く。世界中が平和とはいいがたい状況の今、ララ物資の歴史を振り返ってみることは、大きな意味がある気がする。


―終わり―
 

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  • LALA物資が横浜港を通じて輸入され、それを発議したのは日系移民や日系アメリカ人であり、彼らの多くは明治期から日露戦争後の日米紳士条約で北米移民を自主規制するまでに横浜港から北米に渡った人々。以降は昭和初期から1970代まで南米大陸各国に南米移民を送り出したのも横浜港だった。大戦中日米交換船で帰還する日本人を迎えたり、終戦後、重光外相が戦艦ミズーリに連合国と休戦協定に調印しに向かったのも横浜港大桟橋。1990年代まで欧州に向かう日本人旅行者、駐在員、学生をナホトカ経由で送りだしたのも横浜港大桟橋。横浜港が日本の近代史に深く関わっていることを横浜市立小中学校でもっと深く教える努力をしてほしいと思います。

  • 当時、生活物資困窮のときに、特に食料は助かりました。 いっぽう衣料や履物などはあまりにも体型が異なり、せっかくの品がそのままでは着用できず、衣料はバラして仕立て直しをしたものです。靴はそれができず、残念な思いをいたしました。

  • それにしても旧日東倉庫の件はなぁなにも出来なかったけどこうしてみると改めて残念さがこみ上げてきます

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