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時代とともに姿を消していった横浜の貨物鉄道とは? 東高島駅の歴史を追う!(前編)

ココがキニナル!

日本貨物鉄道株式会社の「東高島駅」ってどんな駅ですか?気になります...(おにいさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

今回は横浜駅周辺の鉄道史を俯瞰しながら、1924年に貨物駅「東高島駅」が開業するまでと、その後の戦争前夜までの展開を。戦後から現在までは後編で

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ライター:永田 ミナミ

東高島駅ができるまで


というわけで、わずか0.8km ながら開通した貨物線は、翌1912(大正元)年には横浜港荷扱所から税関裏まで延伸される。
 


赤レンガ倉庫から象の鼻パークへ向かう歩道に現在も一部路線跡が残されている
 

さらに翌1913(大正2)年にはのちに高島駅となる高島荷扱所まで延長される
 

1914(大正3)年12月20日には横浜駅移転に向けて高島町駅が仮駅として開業する


この高島町駅は東京~高島町間で京浜線(のちの京浜東北線)に合わせての開業であり、神奈川→高島町→程ヶ谷というルートによって神奈川→横浜(現在の桜木町駅)→程ケ谷ルートで必要だったスイッチバックを回避する路線変更も行なわれた。
 


つまりそれまでは青矢印のように横浜駅で切り返さなければいけなかったのが
 

2代目横浜駅開業に向けて緑矢印のようにスムーズに進めるようにしたのである
 

そして翌1915(大正4)年8月15日、高島町駅は2代目の横浜駅に統合、平沼駅も廃止された
 

さらに4ヶ月後の12月30日、高島荷扱所は高島駅となり程ヶ谷まで貨物線が開通

 
高島~程ヶ谷間の貨物線は2代目横浜駅を高架で横切るかたちで敷設された。このとき同時に、新港埠頭完成以来、貨物の取扱量が増えていた桜木町駅から貨物駅を分離して東横浜駅も開業した。

また、この地図の上の鶴見地域では1913(大正2)年から浅野総一郎氏が臨海工業地帯の埋立事業を進めていた。
 


というわけで1917(大正6)年には鶴見~高島間が開通。東神奈川~高島間も開通した

 
鶴見~高島間は「高島線」と呼ばれるようになるが、この横浜及び鶴見にひろがる貨物線網は東海道線の支線であり正式名称はないという。
 


とはいえ現在も踏切には「高島線」という表記もある

 
さて、高島線は東神奈川~海神奈川間の線路と平面交差するかたちで開通された。東神奈川~高島間の開通は、直角に曲がることができない列車を高島線に引き込むための敷設だが、これがのちに東高島駅が設置される布石となるのだった。
 


またこのとき、平面交差することになったこの交差点近くには千若信号場が設置された

 
ちなみに1917(大正6)年は、1910(明治43)年から借上げの状態だった横浜鉄道が正式に内閣鉄道院(3年後に鉄道省に格上げ)に買収された年でもある。この買収によって名称は現在の「横浜線」となった。

こうして、近代工業の発達と埋立事業による工場地帯の整備によって次第に港湾貨物の量が増えると、もともとそれほど広くなかった東横浜の横浜機関庫(車庫)は収容面積が限界に達した。そこでより広い場所をと1915(大正4)年に高島駅に移転、高島機関庫が設置された。
 


1920(大正9)年の『最近調査番地入横浜新地図訂正補版地図』。水色部分が高島機関庫(横浜市中央図書館提供)*クリックで拡大

 
紫色部分は横浜機関庫があった場所。赤色部分はのちに東高島駅が現れる場所だが、この時点ではまだ埋立てが充分ではない。緑色部分は新港埠頭、その下に伸びているのがのちの大さん橋。この地図では「税関桟橋」となっているようだ。