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上大岡、幻の集落「ランプ村」とは?

ココがキニナル!

久良岐公園にあったとされるランプ村は空襲で野毛や関内あたりから人が移り住んだと聞きました。本牧・寿町とともに3大アンタッチャブル地区の歴史が気になる(みなと広告さん)

はまれぽ調査結果!

「ランプ村」は戦前からあった。住民は「戦災で焼け出された人」とは限らないが、戦後にそのような人たちが加わった可能性はある。

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ライター:小方 サダオ

かつての住人にも話が聞けた

 

園内に再現された棚田
 

事情に詳しいという、ある初老の男性によると「1942(昭和17)年~1943(昭和18)年ころから、田んぼと畑が広がっているようなところに人が住むようになりました。私たちは『どうしてあんなところに住みはじめたんだろうね』と疑問に思っていました。電気が通っていない場所でランプを灯していたので、『ランプ村』と呼んでいました。また、水道は通っていませんでしたが、井戸があったので生活できたのです」

「この場所には4~5軒の家がありましたが、Tさんという方が最初の住人です。Tさんは大工や井土ヶ谷にあった食肉処理場などで働く、大男でした」

 

1933年の地図には「ランプ村(青矢印)」は確認できないかった(三千分の一地形図〈1933年〉)
 

1957(昭和32)年の「ランプ村」集落の一部(青矢印)(1957年 南区詳細地図)
 

3年後には集落の住人たちがいなくなったようだ(青矢印)(1960〈昭和35〉年 南区詳細地図)
 

「私たちはあのような場所に人が住みはじめたことが不思議で、『誰かに開発を頼まれたのでは?』などと噂していました。しかし彼らを差別するようなことはありませんでした」という。

さらにある旧家の家主に伺うと、当時の住人の息子が住んでいることを教えてくれた。

 

久良岐公園入口の「ランプ村」があったあたり
 

そこでその男性Sさんを訪ねると「私の父の代から住んでいました。あのあたりは田んぼや段々畑でした。現在の上大岡小学校の校庭の端のあたりでしたが、20軒ほどの家が集まった集落だったのです。私たちは戦後に来ました」とのこと。

住人の仕事について伺うと「私の父は石工で、ほかは会社勤めの人たちが多かったですが、一軒田畑を借りて半農の暮らしをしている家もありました。上大岡にいる大地主から田畑を借りていたのです。私たちは戦後、港南区野庭で小屋のような家に住んでいて、私が小学校高学年のころに引っ越してきたのですが、移転の動機などは聞いていません。その後、久良岐公園や小学校が出来るということで、集落の住民は立ち退くことになりました」と答えてくれた。

物腰の柔らかい、好印象の人だった。

 

現在の上大岡小学校のグラウンドあたりも「ランプ村」の一部だった
 

また前出の“公園の近くに住む男性”にSさんについて伺うと「SさんはTさんの親戚だったと思います。Tさんに勧められて公園近くに住むようになったのではないでしょうか」とのことだった。



上大岡駅周辺で聞き込み



続いて、上大岡駅周辺は古くから人が住んでいた場所と聞いたので、事情に詳しい人がいるのではないかと思い、周辺の人に話を伺うことにした。

旧家の女性に伺うと「1941(昭和16)年ごろ、中区などは空襲に遭いましたが、上大岡は大丈夫でした。そのため戦災にあった人たちが、つてを頼って疎開に来ていました。中区と上大岡は鎌倉街道で結ばれていますから、鎌倉街道を下ってやって来たのでしょう」

 

中区の中心地から鎌倉街道(緑線)を下ると上大岡(青矢印)に至る
 

「また弘明寺などからも人が来ていて、上大岡周辺の空いた土地に小さな小屋を建てて住んでいました。そしてしばらくしたら帰っていきました」という。

1946(昭和21)年5月27日の新聞に「港南・南区など、弘明寺以南が戦災をまぬがれた」とあった。

 

「ランプ村」(青矢印)と上大岡駅(緑矢印)
 

最後に上大岡駅を上がった上大岡墓地の近くでHさんに話を伺うと「現在72才の私が小学生のころですから、昭和20年代になりますが、そのころから畑の中にある通称『ランプ村』は知っていました。1963(昭和38)年ごろ、自宅の近くに『ランプ村』から移転してきたSさんという人と知り合いになり、その人から『ランプ村』に住んでいた話を聞きました」

「Sさんは、両親と長女・長男・次男の5人家族だったそうで、話を聞くと子どものころSさんの家の前はよく通っていました。田んぼのあぜ道にあり、廃材を利用した六畳ほどの広さのバラックで、現在の久良岐公園内の菖蒲池あたりにありました」

 

「ランプ村」の近くにある上大岡墓地
 

「『ランプ村』と呼ばれていたのは、そのあたりには電気が通っていなくて、ランプで生活していたからです。しかし私の家のあたりでも、当時は電力供給が安定しておらず停電がよくあったので、家には臨時用の石油ランプがあり、ランプを使う光景は、当時は珍しくありませんでした。私たちは蔑視ではなく、愛称として『ランプ村』と呼んでいました」という。

またHさん自身について伺うと「1945(昭和20)年の5月19日に、南区の吉野町のあたりから空襲を避けるために引っ越してきました。その10日後の5月29日に横浜大空襲があり、自宅は焼けてしまったので間一髪で助かりました」とのことだった。

 

Hさん家族は吉野町(青矢印)から久良岐公園の近く(緑矢印)に疎開してきた
 

Hさんは「ランプ村」の近くに、空襲を避けて疎開してきた人なのだ。



取材を終えて



なぜ谷戸に人が住みはじめ、「ランプ村」が形成されたかは分からなかった。戦前から何らかの理由で人里離れた地に住む必要性のある人たちがいたのかもしれない。

しかしHさんのように戦中に疎開をしてきたり、戦後、中区などから戦災を逃れ、上大岡駅周辺に小屋を建てていた人たちがいたように、疎開して谷戸に住み始めた人もいる可能性はある。「ランプ村」を含め、本牧・寿町は、3大アンタチャッブル地区という投稿だったが、横浜を知る上で触れる必要があるテーマだと思う。

久良岐公園内にある整備された谷戸の風景の中に、「ランプ村」があったころの面影を感じることができる。

 

昔の谷戸の姿が再現された久良岐公園
 


―終わりー
 
 

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  • 当時は戦災で家を焼け出された日本人、戦地から帰ってきたが家族がいなかった元日本兵、親をなくした浮浪児、朝鮮半島の弾圧から逃れてきた韓国人、国共内戦から逃げてきた中国人といろいろな人たちが路上生活をして、しだいに山の空き地や河原にバラックを立てて生活していた、と祖母から聞きました。ランプ村も、当時としては珍しくないものだったのでしょうか。

  • 久良岐公園の近くの社宅に住んでいましたので、興味深く読ませていただきました。1つの事から、久良岐公園付近の人の流れや成り立ちを知ることができるよい記事でした。バス停で待ち合わせたお年寄りに、社宅がばかりがある汐見台も昔は真っ暗な森だったと聞いて、ビックリしました。土着の人が減っている土地で、住んでいる土地の歴史を知ると愛着が沸いてくるものですね。

  • 私情の入っていない中立的な記事で、かつよく調査もできていて、取材された方の真摯な姿勢が伝わってきました。これからもがんばってください。

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