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かつて藤沢市に存在した「藤沢飛行場」が作られたわけとは?

かつて藤沢市に存在した「藤沢飛行場」が作られたわけとは?

ココがキニナル!

藤沢に存在した「藤沢飛行場」。跡地は荏原製作所となり敷地から燃料庫を発掘。飛行場跡地の隣接地には関東航空計器が、その敷地に「東洋航空工業株式会社」時代の建物がある(goigoiさん/iidag9さん)

はまれぽ調査結果!

藤沢飛行場は1944(昭和19)年に海軍航空隊の関連施設として作られた。戦後は米軍に接収され、その後、東洋航空工業株式会社という民間の航空会社が経営した

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ライター:小方 サダオ

皇室との関係性もあったグリーンハウス
 
前出のグリーンハウスの解説板を作成したという関係者にもお話を伺うことにした。
善行雑学大学は、グリーンハウスの歴史について書かれた『グリーンハウス物語』を出版しており、代表の宮田英夫(みやた・ひでお)さんに取材を申し込むと、快く受けてくれた。

飛行場の前身であるゴルフ場について「1932(昭和7)年のゴルフ場の開場式には、久邇宮朝融王(くにのみや・あさあきらおう、昭和天皇の義兄)、鳩彦王妃允子内親王(やすひこおうひ・のぶこないしんのう)、朝香宮鳩彦王妃(あさかのみや・やすひこおうひ)が出席されました」という。

皇室関係者とのつながりについては、「1943(昭和18)のゴルフ場閉鎖後は、1944(昭和19)年4月に航空隊が編成され、昭和天皇の兄弟の久邇宮殿下が海軍航空隊の司令官として赴任されましたが、1945(昭和20)年に終戦を迎えました。航空隊の所属は通信関連の予科練(海軍パイロットの練習生)でしたが、練習よりも防空壕堀りばかりやらされていたようです」とのこと。
 


1956(昭和31)年の旧藤沢飛行場飛行機格納庫(『藤沢市文書館』より)

 
飛行場については、「飛行場は舗装はされていましたが、重量のある機体は使用できなかったようで、戦後に駐留した米軍は使用をあきらめました。その後民間の会社のものとなりました。私の友人は所有するセスナ機をこの飛行場で飛ばしていました」とのことだった。

皇室関係者がゴルフ場の式典に参加されたり、後に海軍航空隊の司令官となられたりと、皇室との関係性のある場所だったようだ。

藤澤カントリー倶楽部について、『グリーンハウス物語』によると「1924(大正13)年10月、当時日本を代表する東西7大ゴルフクラブの責任者が、日本ゴルフ協会を設立した。それまで外国人主導だったが日本人主導のモラルの確立が実現した。愛好家も上流階級から中級階級にまで広がりを見せた」とある。
 


藤澤カントリー倶楽部(『藤沢市文書館』より)

 
土地確保については、「第1次世界大戦による戦後恐慌、関東大震災が大打撃を与えた。藤沢銀行などの関東の地域銀行が1924(大正13)年11月に破たん。その銀行が所有していた担保物件の土地を処分する必要が出て、当地のゴルフ場転用を容易にした」とあり、その後「1930(昭和5)年横浜財界のゴルフファンで組織される『不老会』により、藤澤カントリー倶楽部が発足」とあった。
 


女性用コース・メリーゴルフ倶楽部のリーフレットと周辺地図(『藤沢市文書館』より)

 
また戦時中の様子について、藤沢市が編さんした『回想の湘南』によると「藤沢ゴルフ場の跡地に海軍が航空隊の基地を建設したのは、太平洋戦争の初戦の勝利以後敗退を重ねている時期だった。藤沢市周辺では海軍航空隊関連の施設がいくつか作られるようになったが、この藤沢海軍航空隊も戦闘機電話や電波探知儀など無線兵器の整備員の養成を目的として建設された」

「司令部は旧ゴルフ場のクラブハウスを使用、滑走路は幅25メートル、長さ1050メートルで表面を厚さ6cmのコンクリートで覆った。1944(昭和19)年9月に着工、12月末に竣工と文書資料にあるが、航空隊開設以前から着工していた」とあった。
 


クラブハウスの裏手にある施設

 
藤沢飛行場は戦況悪化の時期に建設され、そのころ藤沢市周辺には海軍航空隊関連施設が作られていたようだ。

次に小田急線の線路沿いでアンティークショップを発見。店主に藤澤カントリー倶楽部と飛行場について伺うと近くに住む地元の住人を呼んでくれた。

その男性は「藤澤カントリー倶楽部は皇族の関係するゴルフ場で、18ホールもある広いコースがありました。しかし利用者が少なく暇だったので、そのころキャディーをしていた横浜市出身のプロゴルファー中村寅吉(なかむら・とらきち)は空き時間にドライバーを彫ったりしていたそうです。私は子どものころ、落ちているゴルフボールを拾って本人に持って行ったことがあり、ボールを買い取ってくれました」
 


1973(昭和48)年の旧藤沢飛行場の様子(『藤沢市文書館』より)

 
「戦時中の航空隊は予科練の軍歌、『七つボタンは桜に錨・・・』との“若鷲の歌”で知られる特攻隊員たちでした。木造の飛行機に爆薬積んで突っ込むもので、何十機とありました。雨が降ると機体がダメになるので、格納庫の中に入れられていたのです。また施設内には、飛ばない飛行機が置いてあり、そこで模擬訓練をしていたようです」と話してくれた。

また「各所に地下の防空壕が掘られ、それぞれがつながっていました。その中に重機や通信機、医療機械などが詰め込まれていたのです。予科練の若者は腹をすかしていたので、不憫に思った母がサツマイモをふかして食べさせたこともありました」という。
 


格納庫が並んでいた荏原製作所の向かい側あたり

 
「滑走路は約2kmしかないので、双発の爆撃機『呑龍(どんりゅう、戦時中の陸軍の爆撃機)』が2回ほど滑走路をオーバーランして崖の下に墜落する事故がありました」という。

「米軍の戦闘機P51は厚木基地爆撃の帰りに、善行を機銃掃射しました。その後、海沿いにあった軍事施設『関東特殊製鋼』を攻撃したのです。何十機も同時に急降下して機銃を撃って来ました。また米軍は通信機器の電波妨害のためのものだったようですが、アルミ箔のようなものを落としていったのを見たことがあります」と話す。
 


旧藤沢飛行場。1961(昭和36)年の航空写真(国土地理院より)

 
「戦後は米軍が駐留していて、よくジープが走りまわっていました。米兵はやさしくて、握手をした時に手に握ったチョコレートやガムを手渡してくれました。しかし領域内の侵入には厳しく、私の親戚は領域内とは知らずに山で牛のための草を刈っていたら、米軍に撃たれて死にました。米兵は英語で警告をしていたようですが、理解できなかったそうです」という。

「戦後、民間の航空会社の時には、大学のグライダー部が滑走路を使い車で引っ張ってグライダーを飛ばしていました」と答えてくれた。

軍の施設、民間の航空会社と変わったが、起伏があったためか、オーバーランなどもあり飛行場向きではなかったのかもしれない。
 


1954(昭和29)年の東洋航空による遊覧サービス時に撮影した藤沢飛行場周辺の写真(提供:関根はじめ氏)