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山下公園を走っていた貨物列車、何を運んでいた?

山下公園を走っていた貨物列車、何を運んでいた?

ココがキニナル!

昔、山下公園の上を貨物列車が走っているのを見たことがあります。あの貨物列車はどこへ何を運んでいたのでしょうか? 桜木町の駅前も大きな貨物列車の駅でした。(寝台内では禁煙さん)

はまれぽ調査結果!

「山下埠頭駅」へ貨物を運ぶ列車が、かつて山下公園内を走っていた。運んでいたのは埠頭からの輸出製品で、日本の経済成長を支える重要な役割を果たしていた

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ライター:はまれぽ編集部

貨物列車が運んでいたものは?



当時、山下公園内を走っていた貨物列車が運んでいたのは、いったい何だったのだろう?
 


現在のふ頭の様子。写真右下が公園の「世界の広場」だ

 
山下ふ頭ができる前、戦前の横浜港では、生糸の輸出によって外貨を獲得し、日本の発展を支えてきた。
 


絹によって発展してきた横浜港、そして日本(写真は
シルクセンター

 
生糸の輸出産業は戦前まで続いたが、敗戦後は港湾施設の9割が接収された。占領下では全国の連合軍基地関連の物資を運んでいたようだ。

その後、多くの港湾施設は返還されたが、瑞穂ふ頭は接収が続き、使用できない状態が続いた。山下ふ頭が整備されたのは、その代替の埠頭を整備する必要があったためだ。
 


今も関係者しか立ち入りができない瑞穂ふ頭

 
横浜港の輸出品目は時代を経るにしたがって変わっていくが、戦後から1960(昭和35)年に掛けては日用雑貨や食料工業品など「軽工業品」がトップ。その後、高度経済成長期を迎えた1961(昭和36)年以降は重化学工業品が急激に伸び、輸出の中心となっていった。

横浜税関の資料によれば、特に昭和60年代に掛けては電気機器の輸出額が全国一位を占めるなど、主要輸出品だったようだ。
 


臨海部の工業地帯で輸出品が生産されてきた

 
一方で、輸入に関しては戦後は特に食料品などが多く荷揚げされていたが、その後の産業発展に伴って原材料の輸入が増加。それを加工して、製品として輸出するというサイクルが確立していく。

山下ふ頭本体は1958(昭和33)年に完成。一方、山下公園を走る貨物線に関しては「景観が損なわれる」として反対運動が起こり、着工が遅れた。できる限り山下通りに近い位置に、15メートルの高さの高架を作ることで折り合いが付き、線路が敷かれることになったが、運行が始まったのは1965(昭和40)年のこと。
 


山下通りから公園方向、かつては高架が空を覆っていた

 
この時期、山下公園を走る列車は日本の復興と発展を支えるため、埠頭から輸出する工業製品を詰め込み、線路を駆け抜けていた。

山下ふ頭の荷物取扱量は、1966(昭和41)年にピークを迎え、年間1574隻・273.3万トンの貨物が行き来していた。だが1970年代以降、コンテナ船が入港できる本牧ふ頭や大黒ふ頭が完成すると輸出入の役割がそちらに移り、1986(昭和61)年には貨物取扱量が585隻・131.8万トンにまで減少。同年、山下埠頭駅もその役割を終えて廃止されることになった。

その活躍期間は20年あまりと、決して長くない。
だが、山下公園を走っていた貨物列車は、こんにちにいたる日本の発展を支えてきた立役者であることは間違いない。



取材を終えて

もしもいま、山下公園内を列車が走るという計画が打ち出されたら、やはり「景観が損なわれる」と反対運動が起きそう。それでも当時、高架という形で線路が引かれたのは、それがどうしても必要だったからに他ならない。

かつて高架があった時は、公園入口の薄暗い雰囲気と、公園内の視界が開けた景色とのコントラストが印象的だったという。
まだ名残が残されている鉄道跡も、いずれは消えていくものかもしれない。だが、その果たしてきた役割は、かつての景色とともに記憶にとどめておきたい。


ー終わりー


参考文献
『神奈川の鉄道』(野田正穂・日本経済評論社)1996年
『レイル・横浜臨港線の軌跡』(エリエイ出版部)1990年
『横浜港二十年の歩み』(港湾管理二〇周年記念)1976年

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コメントする
  • 本町小学校のプレハブ校舎時代、校庭の横に線路があって、朝の8時台に下っていき、その40から50分後に戻って行ってましたその頃の貨物は肌色の貨物列車でビールのやつだったと思いますしかし、最大のイベントは、0系新幹線の甲種輸送があった事ですこの線路を新幹線が走ったのを見た時はさすがに度肝を抜きました

  • 横浜駅辺りからのトラムとして活用できた気もする。撤去の他に方向は検討されなかったのかまで踏み込んで記事にしてほしかったな

  • 横浜博のときに走った列車、ずっと残してほしかったな。

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