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時代とともに姿を消していった横浜の貨物鉄道とは? 東高島駅の歴史を追う!(前編)

ココがキニナル!

日本貨物鉄道株式会社の「東高島駅」ってどんな駅ですか?気になります...(おにいさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

今回は横浜駅周辺の鉄道史を俯瞰しながら、1924年に貨物駅「東高島駅」が開業するまでと、その後の戦争前夜までの展開を。戦後から現在までは後編で

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ライター:永田 ミナミ

東高島駅ができるまで(つづき)

 


1920(大正9)年になると横浜港荷扱所は横浜港駅に改称。東横浜駅までの旅客扱いも開始する

 
日本郵船、東洋汽船のサンフランシスコ航路の出港日には東京~横浜港間の旅客列車が1往復運転された。
 


この列車は「ボートトレイン」と呼ばれ親しまれた

 
そして関東大震災の翌年の1924(大正13)年10月1日、今回の主役が登場する。ちなみに関東大震災によって倒壊した2代目横浜駅は使用中止となる。
 


ついに東高島駅の開業である
 

この趣深い廃線跡は
 

東神奈川~海神奈川の路線から分岐したものだが
 

衛星画像で見ると、ゴルフ練習場が線路跡に沿っていることが分かりさらに趣深い
 

廃線跡はこの駐車場のフェンスのカーブに沿って東高島駅へと続いていたのだ

 
さて、ついに東高島駅が開業したが、このあとの展開も時系列に沿ってもう少し見ていく。



貨物線の黄金時代


 


1928(昭和3)年10月15日、現在と同じ場所に3代目となる横浜駅が開業する

 
この横浜駅開業によって「スイッチバックによって東海道線が横浜駅の鼻先をスルー問題」が解決し、これにともない神奈川駅が廃止。2代目横浜駅も完全に廃止となり、横浜~桜木町間の線路も現在のルートに変更された。

また1928年3月31日には東横浜~生糸検査所間が単線で開通する。生糸検査所は先日取り壊されてしまった日本大通りの旧日東倉庫も設計した、遠藤於菟(えんどう・おと)氏の設計によって1926(大正15/昭和元)年に完成した建物であり、現在は横浜第二合同庁舎となっている。
 


現在も高島町交番裏のマンション敷地内に2代目横浜駅の遺構を見ることができる
 

1929(昭和4)年には新鶴見操車場が完成。また高島~程ケ谷間の貨物線が廃止
 

新鶴見操車場は高島機関庫をはるかに上回る規模で貨物輸送を支えた(横浜市中央図書館提供) *クリックで拡大

 
1日1600車を扱っていた東京都の品川操車場は敷地の拡大がむずかしく、それに代わるものとして新たに鶴見に整備された新鶴見操車場は、1927(昭和2)年の第1期工事終了時点では1日の操車能力は600車だったが、1929(昭和4)年の完成で1日3500車の操車能力を持った。

1932(昭和7)年再販(1931<昭和6>年発行)の『模範大横浜市全図」ではもはや地図からはみ出してしまっているが、横浜機関庫、高島機関庫と比較してもその規模の大きさが分かるだろう。

1930(昭和5)年には昭和恐慌が起こるが、高島~鶴見とその周辺の臨港地域では影響は比較的少なかった。ちなみに1931(昭和6)年には「程ケ谷駅」が「保土ケ谷駅」に改称される。
 


そして1934(昭和9)年には貨物駅高島駅、東高島駅から分岐して表高島駅、山内町駅が開業
 

また海神奈川駅が陸側の神奈川水再生センター付近に移動、平面交差も解消された
 

翌1935(昭和10)年には瑞穂埠頭に瑞穂駅が開業、入江~瑞穂間が開通する

 
入江駅は新子安駅の南側に設置された貨物駅であり、同時期に弁天橋~鶴見河口間も開通している。

このように横浜の埋立地一帯には貨物線が張り巡らされていったが、国内情勢はすでに1931(昭和6)年に満州事変、1932(昭和7)年には五・一五事件を経験し、このあと1936(昭和11)年に二・二六事件1937(昭和12)年に盧溝橋事件(日中戦争開始)、1941(昭和16)年に真珠湾攻撃と軍部が台頭し絶望的な戦争に突入する暗い時代へと進んでいく。ちなみに瑞穂埠頭は1925(大正14)年に着工し、完成するのは終戦と同じ1945(昭和20)年である。
 


千若信号場と瑞穂埠頭をつなぐ線路跡は今もその姿を残している

 


後編に続く



今回は、横浜における開港から貨物線の開通、発達の歴史を中心に東高島駅の開業と太平洋戦争前夜までをたどった。後編では戦後における貨物輸送の変化をたどりながら、JR貨物や都市整備局への取材をまじえて東高島駅の現在に至るまでを見ていくことに。
 


鉄道輸送とモータリゼーションが複雑に溶け合った結晶がこの風景なのかもしれない

 
―終わり―
 

参考文献
『横浜の鉄道物語 陸蒸気からみなとみらい線まで』長谷川弘和著/JTBパブリッシング/2004
『神奈川の鉄道 1872~1996』野田正徳・原田勝正・青木栄一・老川慶喜編/日本経済評論社/1996
『横浜線物語』サトウマコト著/株式会社230クラブ新聞社/1995
『鉄道と街 横浜駅』三島富士夫・宮田道一著/大正出版/1985
『貨物鉄道 軌跡と未来』講談社編/講談社/2011
 

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  • かつて隆盛を極めた貨物線の廃線跡には錆(さ)びついたレールが朽(く)ちた枕木とともに根を張っています。昭和40年代、京浜東北線の海側の車窓から見た東高島駅の貨物駅舎の姿がわたくしの記憶から蘇(よみがえ)りました。あの時の駅舎の屋根って、いま駐車場を覆(おお)っている屋根そのものじゃありませんか。

  • ここまでの調査パーフェクト!!後編を楽しみにしています。ところで「たろすけさん 現在の国道一号線に貨物線が走っていたところがあった」は戸部近辺の事を言っているのではないかと思うが、エセ鉄道マニア本でも実際そういう記述があったりするのでわかりにくいが、旧線路敷の場所は元国鉄官舎→JR社宅→現在国道に沿った細長くマンションとなっている敷地で、その先は尾張屋橋が浜松町交差点に降りてくるスロープと重なる。この橋は関東大震災後に旧線路が廃止されて、そのあとに復興計画で整備されたものなんです。国道は都市計画によって整備された新規の路盤です。それより現三代目横浜駅東口から高島町にかけての国道が、まさに東海道線および京浜線電車の線路だった事がなんだかすごい。

  • 現在の国道一号線に貨物線が走っていたところがあったのかと思うと、感慨深い。

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