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戸塚区にある謎の森!? 「ウイトリッヒの森」に住んでいたアーノルド・ウイトリッヒ氏って誰?

ココがキニナル!

戸塚区俣野町にスイス人のアーノルド・ウイトリッヒ氏が寄贈した森「ウイトリッヒの森」があります。アーノルド・ウイトリッヒ氏の日本での足跡を含めてご調査いただけないでしょうか。(まさしさん)

はまれぽ調査結果!

ウイトリッヒ氏は戦前から戦後にかけて戸塚駅前から戸塚区俣野町にある「ウイトリッヒの森」へ引越している。戦前は農作業を、戦後は商社マンに!

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ライター:関 和幸

ウイトリッヒ氏は「建築家」ではなかった!?



まずお話を伺ったのは原宿で金物・雑貨を販売する大川誠司(おおかわ・せいじ)さん(85歳)ご夫婦。

「もともとウイトリッヒ氏はこの辺りに畑を持っていました。戦前、私が子どものころは地下足袋を履いて牛に鋤(すき)を引かせて農作業をするウイトリッヒ氏を見たことがあります。ご家族は奥さんのほかに息子さんがおられたようですが、第二次世界大戦で戦死されたそうです。家は今のウイトリッヒの森に入ってすぐのところにあって、西洋風のこぢんまりとしたものでしたね」

 

ウイトリッヒ氏の家があった場所。現在は「ありんこ広場」と呼ばれている

 
「大型のシェパードやニワトリを檻の中で飼っていました。気さくで優しい方でしたよ。よく森でタケノコが生えたとか、ニワトリが卵を生んだとか、奥さんがクッキーを焼いたとかで、ご馳走になりました。うちにもよく日曜大工のための釘を買いにきてくれたりね・・・」

 

ウイトリッヒ氏と一緒に写真でも撮っておけば良かったねぇ、と言うお二人

 
続いてお話を伺えたのが、古川要作(ふるかわ・ようさく)さん(77才)。こちらではウイトリッヒ氏の職業について意外な情報を教えていただいた。

「ウイトリッヒ氏はここに引っ越して来られてからも、戸塚に通勤されていました。当時はまだ珍しい外車・・・黒のシトロエンに乗っていましたよ。高級時計を扱うシーベル・ヘグナーという商社を創立されたとかで、確か副社長だったはずです。奥様は小柄な方で、もう無くなってしまった近所の八百屋さんでよく買い物をされてましたね」
 


ウイトリッヒ氏、懐かしいなあ・・・という古川さん

 
「ウイトリッヒの森」の看板や横浜市のホームページには、はっきりとウイトリッヒ氏は「建築家」だったと書かれている。もしかしたら元建築家で、その後に商社マンになったのかもしれない。

そこでネットで検索するとシーベル・ヘグナーはスイス発祥の商社であり、かつては高級カメラの代名詞「ライカ」の日本総代理店だったようだ。現在はDKSHジャパンと社名が変わっている。
 


ウイトリッヒ氏は建築家ではなく、カメラを扱っていた・・・!?

 
さっそく同社広報担当の方に連絡した結果、たしかにウイトリッヒ氏は社員だったことが確認できた。そして1990(平成2)年夏に発行された同社の社内報を送っていただいた。

そこにはウイトリッヒ氏をよく知る、スイス・チューリッヒ本社社員のハインツ・キルナー氏が寄せた「ウイトリッヒの森」にまつわる文章が掲載されていた。
 
 
 

シーベル・ヘグナー社の社内報で語られるウイトリッヒ氏の人柄



DKSHジャパンの広報担当の方および社内報によると、ウイトリッヒ氏は同社の副社長ではなく、スイス製の「精密ドリル」を販売する部門を担当されていたらしい。実際にウイトリッヒ氏が同社に入社したのは1951(昭和26)年。それから1965(昭和40)年に定年退職されるまで勤務されていた。

またスイスから来日されたのは1930(昭和5)年ころであり、ウイトリッヒの森および周辺の田畑を1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発直前に購入されたという。そこで米や野菜、果物を作り、横浜の市場に売ることもあったようだ。戦争が激しくなってからは軽井沢に疎開されている。

 

DKSHジャパンからいただいたシーベル・ヘグナー社の社内報(*クリックして拡大)

 
終戦後、ウイトリッヒ氏はまた戸塚に戻った。友人達の間での彼のあだ名は「ノルディ」。「jass(ヤス)」というカードゲームが大好きで、冗談話のレパートリーも豊富だったようだ。友人達とウイトリッヒの森でアーチェリーを楽しんだあと、「jass」にふけることもあったという。

ちなみにこの「jass」とは、スイスで昔から愛されている国民的カードゲームらしい。
 


ネットで調べるとトランプに良く似たカードゲームだった(写真はイメージ)

 
またウイトリッヒ氏の日本語は極めて流暢かつ田舎風の訛りがあった。そのため電話で話をした日本人が事務所で同氏に会い、外国人だと知って驚くこともよくあったそうだ。そして同氏は、日本人、スイス人、取引先、メーカーの間での評判がとても高かった。

社内報の表現を借りれば「……彼の目には、いつもいたずら混じりの温かい人情味が溢れていた」ということである。
 
 
 

取材を終えて



35年の歳月は意外と分厚い壁であり、ご本人の写真や当時の様子を撮影した写真などには辿り着けなかった。

だが、まだ手掛かりは残されている。

実はウイトリッヒ氏について語ってくれた古川氏によれば、横浜のどこかにウイトリッヒ氏の妻の津田ひ亭さんの実家があるらしい。また、藤沢にウイトリッヒ氏と交遊があった『ジョワ』さんという方がいたという。もし読者の中で心当たりの方がいらっしゃれば、ぜひ編集部までお知らせいただきたい。


―終わり―
  
 

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  • ウイトリッヒさんとは私の父と親交がありました。私の家は農家でしたので戦前後よく家にも来てたそうです。ウイトリッヒさんには父はお世話になったといってました。森には肥料にする枯れ葉を頂きました。私も 昭和41年頃お会いしました 確か男性の人ときました家の中の構造を見ていました。 昭和33年頃 暮12月 私が小学生で 兄と一緒にウイトリッヒさんの家にお餅を届け、帰りにはおこずかいを頂きました確かその当時で500円、1000円を頂きました。小学5年生の時 クラスで森行き花を取ったら奥さんに怒られました。スイスでは自然を大切にしているとのことでした。元俣野町民より。 

  • ウイトリッヒさんの森の中のご自宅には、防空壕もあったんですよね。小学生の時、探検がしたいと、お願いして入れてもらったことがあります。階段を下っていった覚えがあるなぁ。懐中電灯で照らした壁には大きなゲジゲジたちがいっぱいいたんだったっけ。小学2年生の頃だったかな、父が弓を作ってくれることになって、森の竹を切らせてもらったこともありました。たしかに鶏たちをかっていましたね。薄暗い森の中で金網越しに鶏を見た覚えがよみがえってきました。市民の森となった「ウイトリッヒの森」は、NHKの「小さな旅」で取り上げられました。近くにあった俣野小学校の生徒たちには、森を散策して欲しいと要請があり、みんなで歩いたんでした。たしか小学5年生の頃。おそらく86年くらいです。森ではホタルが見られる他、狸、リス、沢ガニ、キツツキ、あおばずく、あおばと、あらいぐまなど、いろいろな動物や鳥たちに出会うことができます

  • ウイトリッヒの森の最寄のバス停は、「国立病院前」ではなく、「横浜医療センター前」です。また、湘南台駅からバスで1本の「福泉寺」や、行き方によっては「聖母の園前」からでも、5〜10分程度でたどり着くことができます。

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