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京急「屏風浦」駅はなぜ「屏風ヶ浦」じゃないの?

ココがキニナル!

京急に屏風浦駅ってありますよね。病院とかバイパスとか、ましてや駅前の交差点も「屏風ヶ浦」なのに、なぜ駅名には「ヶ」が付かないの?(ケンレオンさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

開業時は「屏風ヶ浦」と「ヶ」が入っていたが、昭和20年代後半に「屏風浦」に変更された。だが、その理由や表記としてどちらが正式かは分からない。

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ライター:橘 アリー

「屏風ヶ浦」って不思議!?



横浜市に長く住んでいるので、もちろん、「屏風ヶ浦」と言う名前は知っている。だから、“ヶ”が入っていない「屏風浦」も、自然と“びょうぶがうら”と読んでしまう。
横浜市民の多くは、そうなのではないだろうか?そうなると、自然と「何で“ケ”が入ってないの?」と疑問が湧いてくるであろう。現在は地名にも残っていないこの「屏風ヶ浦」と言う名前はちょっと不思議な存在でもある。そこで、まずは名前の由来から辿ってみる事に。


そもそも「屏風ヶ浦」の名前の由来は?



「屏風ヶ浦」が地名として使われていた事はあったのかを調べてみると、いそご区民活動支援センターが発行している「いそごの歴史マップ」に、「屏風ヶ浦村役場跡」というものを発見。
 


いそご区民活動支援センター


調べてみると、1889(明治22)年に大幅な町村合併が施行され、岡・磯子・滝頭・森・中原・杉田が合併、屏風ヶ浦村となったようだ。
その後、1911(明治44)年に岡・磯子・滝頭が横浜市に編入され町となり、1927(昭和2)年残りの地域も編入され屏風ヶ浦村の名は消滅した。
つまり、「屏風ヶ浦」は地名として使われていたのだ。

そこで昔の地図で「屏風ヶ浦村」を確認してみると、「屏風ヶ浦村」と「屏風浦村」の両方の文字で表記されているのを発見!
 


村自体は消滅しているが「屏風ヶ浦村」と表記されている
「横浜市域拡張一覧図」(昭和7年横浜市土木局発行)
 

「屏風浦」と表記されている。「大横浜地図」(昭和2年横浜市土木局発行)


これはどういう事なのか? “びょうぶがうらむら”は「屏風ヶ浦村」と書くのが本当なのか、それとも「屏風浦村」と書くのが本当なのか、横浜市の住居表示係りに問い合わせてみた。

すると、現在“びょうぶがうら”は地名として残っていないので“びょうぶがうら”という名前に関する資料は残っていないそうだ。なので、当時はどちらの“びょうぶがうら”を使っていたのか、現在では、どちらが正式であるかは何ともいえない、というお答えだった。

では、地元ではどうだったのか、磯子区郷土史研究ネットワーク代表の葛城 峻さんに聞いてみた。はまれぽでは、これまで何度か葛城さんにお世話になっている。
 


今回も快くお話して下さった葛城峻さん


葛城さんによると、現在では「屏風浦」という表記のものも見られるが、地元では昔から“ケ”を入れた「屏風ヶ浦」を使っていて、「屏風ヶ浦」という名称にはとても愛着を持っているそうだ。
そして名前の由来は、「現在の本牧から金沢区の辺りまでの海岸線は、埋め立てられる前は断崖絶壁になっていて、海から見るとちょうど屏風を立てたように見えたことから屏風ヶ浦と呼ばれた」と話してくれた。

これらの内容を整理してみると、地元では昔から“ケ”を入れて使っているが、現在では地名では無いので「屏風ヶ浦」と「屏風浦」のどちらを使うことも可能となっている、と言うことになるであろうか。

では、実際には、どれだけの「屏風ヶ浦」「屏風浦」が有るのだろうか?