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かつて水上生活を営んでいた人たちの生活環境とは?

ココがキニナル!

古い人の話によると、横浜では昔、川の上に住んでいる人がたくさんいたそうです。いったいどんな生活環境だったのか気になります(MRハニーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

水上生活者の実態は、ハシケと呼ばれる小舟を使った運送業に従事する者たち。ハシケの中に住宅を設けており、移動生活を送る者もいた。

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ライター:ナリタノゾミ

かつて、横浜港や大岡川、その分流である中村川などには、ハシケ(艀)と呼ばれる積荷運搬用の小舟がひしめくように停泊していたという。
ハシケの持ち主の中には、船尾のスペースを使って日常生活を営んでいる者もいた。
彼らは「水上生活者」と呼ばれていた。

「水上生活者は、横浜港でハシケを使った運送業に従事する人たちでした」
昭和20年代から石川町に住み、中村川とともに幼少期を過ごした田中博和さんと姉の今井嘉江さん、そして中区山手町にある日本水上学園の園長・松橋秀之さんにお話を伺った。
 


左から、田中博和さん、姉の今井嘉江さん。
田中さんは20代の頃、「シップチャンドラー(港の便利屋さん)だった」とのこと
 

左から、日本水上学園の園長・松橋秀之さんと、松橋さんを紹介してくださった今井さん


横浜港でハシケ運送業に従事していた水上生活者たち。
彼らは一体どんな暮らしをしていたのか。そして、なぜ水上から去っていったのか。



水上生活者の子どもたち

1942(昭和17)年、クリスチャンで社会教育家だった、伊藤伝(つたえ)氏によって、横浜港の水上生活者の子どもたちのために、宿泊施設付きの小学校、「日本水上学校」が設立される(なお、「水上」という名称が付くものの、実際に学校があったのは陸上である)。
 


日本水上学校の創設者・伊藤伝氏(資料提供:日本水上学園)


1921(大正10)年、東京にある芝浦小学校(現・竹芝小学校)に、日本で初めて、水上児童のための「水上学級」ができる。

同校の「水上学級」の担任となった伊藤氏は、沖に出た両親と船が戻ってくるまで岸壁や材木の陰で野宿せざるを得ないという、水上児童の過酷な生活環境を目の当たりにし、寄宿舎併設の必要性を主張した。

その成果もあり、1929(昭和4)年、水上協会(水上生活者の福祉増進を目的とする団体)の運営により、水上児童のための寄宿舎付きの学校、「東京水上学校」が開設される。

「東京水上学校」が開設された後、同氏が目を向けたのは、横浜だった。
当時、横浜の水上生活者の子どもの就学問題は、まだ手つかずの状態だったという。

伊藤氏は自らの足で土地を探し、資金を集め、1942(昭和17)年、横浜市山下町に「日本水上学校」を創設した。
 


設立当初の校舎は、山下町の「印度人商館」という建物内にあった
(資料提供:日本水上学園)
 

その後、紆余曲折を経て、昭和20年代に中区山手町の聖坂に移転し、現在に至る
(資料提供:日本水上学園)