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FMヨコハマを支えたアナウンサーたちの今を教えて!

ココがキニナル!

FMヨコハマのアナウンサー木島京子さん、今はどうされているのでしょう。市営地下鉄のアナウンスが木島さんと聞きました/山下くに子さん、帆足由美さんの今は?(きじみけさん/mikimisaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

木島さんはナレーターとして活躍中。市営地下鉄のアナウンスはすべて今も木島さんである。山下さん、帆足さんもそれぞれ声の仕事を中心に活躍している。

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ライター:久保田 雄城

バブル時代の幕開け前夜に開局したFMヨコハマ。そのオープニングに立ち会ったのが帆足由美さんと山下くに子さんだ。そして彼女たちが「卒業」した数年後、木島京子さんがFMヨコハマへ。・・・それから長い時が流れた。 

筆者が東京から横浜に移り住んだのは、1986(昭和61)年。横浜での最初の感動は、FMヨコハマの、まるでアメリカのラジオのようにテンポのあるDJスタイルだった。それがとても新鮮でかっこよかったことを、今でも鮮明に覚えている。



アナウンサー人生を今もまい進中~帆足由美さんの今

ある風の強い昼下がり、筆者はカフェで帆足由美さんに会うことができた。彼女は開局準備の段階からFMヨコハマに入社し、その4年後の1989(平成元)年、同局を退社。そこからフリーアナウンサーとして活動を開始した。

翌年には、bayfmの「ベイサイド・フリーウェイ」が始まる。これは現在も放送されており、この番組が今の帆足さんの活動の中心になる。
 


カフェのソファでくつろいで話す帆足さん


これに加えてTBSラジオ「ドライバーズリクエスト」へのレギュラー出演や、東京国際映画祭、音楽イベント等の司会も務めている。また近年は、「重曹・ビネガー・掃除ソムリエ」としての活動もしている。

「とにかく忙しかった」。FMヨコハマの開局前後の半年を振り返って彼女は言う。開局前はその準備のための忙しさ。そして開局後は、番組を軌道にのせるための忙しさだったという。
 


ディレクターとの打ち合せもにこやかに(画像提供:イーグル・ベイ)


ラジオ番組というのは原則として、DJ、ディレクター、ミキサー、AD、というスタッフで作られるのだが、帆足さんの場合はこれを一人でこなし、さらに構成まで自分でやっていた。まさに、60年代から活躍し続けたアメリカの伝説的DJ、ウルフマン・ジャックのようなワンマンDJスタイルだ。

そんな彼女の最高の息抜きは、同期だった山下くに子さんとの仕事帰りの飲み会だった。山下さんとはそれだけではなく、お互いの家に泊まりにいったりもしたという。そして喧嘩もよくした。逆にいえば喧嘩ができるほどの仲良しだったということだろう。
 


「ベイサイド・フリーウェイ」オンエア中!(画像提供:イーグル・ベイ)


中学時代、授業で朗読をすると、隣の席の友達に、「由美ちゃんって、アナウンサーみたいだね」と声をかけられた。これをきっかけにアナウンサーを志した帆足さん。まっすぐにその夢を叶え、現実となった夢は今も続いている。



ナレーターへ活動の場をシフト~木島京子さんの今

帆足さんとお話した翌日、筆者は1962(昭和37)年創業の芸能プロダクションの老舗・圭三プロダクションの応接間にいた。

そこに所属する木島京子さんは、1993(平成5)年から2005(平成17)年までの12年間にわたりFMヨコハマでフリーのニュースアナウンサーとして活躍した。

2000年代に入ると、リスナーの「木島さん、こんな私に喝を入れてください」というメールがきっかけで、木島さんの代名詞「喝!」が誕生。その後、自然発生的に同様の投書が増え、木島さんの人気トークとなった。

現在は、NHK・BS1の「ワールドWaveアジア」「ワールドWaveトゥナイト」「アジア食紀行」のナレーションを担当している。また、2005(平成17)年以降、市営地下鉄の構内で流れているアナウンスもすべて木島さんの声だ。
 


「喝!」について語る木島さん


ニュースアナウンサーとしてのFMヨコハマ時代、一番印象深い出来事を尋ねる筆者に、木島さんは迷わず「阪神淡路大震災」と答えた。

その日、彼女はニュース担当の日だった。朝4時に起きて、タクシーに乗って6時前にスタジオ入りした。スタジオの扉を開けるやいなや、朝の番組のADが血相を変えて「木島さん! 関西で大地震が!」と走り寄ってきた。

スタジオ内は騒然としていたという。当時はインターネットがまだ普及する前で、ニュースソースは通信社からの配信だけ。次々と新しい情報が入ってきて、マグニチュードや地震の規模などをニュース速報という形で読み上げていた。

午前7時半か8時くらいに、ついに犠牲者が一人出たという配信があった。そこで木島さんは、死者が出るほどの大きい地震だったのかと大きなショックを受けた。

しかし、そのあと一時間ごとに犠牲者の数が100人単位で増えていった・・・。「それまで経験したことのない、言葉に言い尽くせない体験でした」。それまでずっとにこやかだった彼女の顔に悲痛な表情が浮かんだ。
 


当時を振り返っていただいた