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横浜に炭鉱があったって本当?(前編)

ココがキニナル!

横浜に「炭鉱」があった話を詳しく聞きたいです。第二次大戦中まで上大岡や野庭で「亜炭」が多く採掘されたそうで、現在千住院がある山の下も炭鉱だったそうです。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町といったところに亜炭の炭鉱があった。採算の関係で横浜市内で消費したとされている。

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ライター:松崎 辰彦

横浜にも炭鉱があった!?



横浜にかつて炭鉱があった・・・と聞いても首を傾げる人がほとんどだろう。炭鉱といっても三井三池炭鉱(福岡)や常磐炭田(福島~茨城)、あるいは夕張炭鉱(北海道)のような石炭を大々的に採掘する施設ではなく、投稿者も書いている「亜炭(あたん)」と呼ばれる炭化度の低い、石炭化する前の物質を小規模に採掘する事業だった。
 


野庭から産出した亜炭 (画像提供:港南歴史協議会)


場所は港南区や戸塚区の一部で、現在では何の痕跡もない。
郷土史家である貞昌院の亀野哲也住職ははまれぽ記事「港南区のダイダラボッチ伝説、その真相は?」でもご登場いただいた人物だが、実は横浜の炭鉱に関しても調査研究を進めている。
 


亀野住職


亀野住職に横浜の炭鉱について話を聞いてみよう。

「横浜には下倉田・野庭町・日野・最戸(さいど)などに炭鉱がありました。広い意味では石炭の一種である、亜炭という着火性も低く熱量も少ない物質を採取していました。一般に炭鉱は地面に対して垂直に深く掘りますが、亜炭は広く浅く分布するのが特徴です。横浜の炭鉱も横に長く掘っていました」
 


「あたん」の文字が見える地形図・戸塚・1921(大正10)年測量、1925(大正14)年発行


亜炭の採掘は浅い深度で広く行われるため、現在でも亜炭の炭鉱跡で時折、陥没事故が起こるという。
「何年か前、岐阜県で陥没事故がありました。岐阜県は最も多く亜炭が採掘されたところです」
現在では庶民の目の前からほぼ完全に姿を消した亜炭だが、当時から燃料源としては決して優秀なものではなかった。

「熱量としては石炭が1キロあたり6000キロカロリー以上なのにくらべ、亜炭は平均3700キロカロリーと言われ、着火性も悪く、燃えかすが多くて臭かったという証言もあります」

そのようなものでも依存しなければならない時代背景があったということである。



なぜ亜炭が掘られたのか



亜炭の採掘は1918(大正7)年、1919(大正8)年および太平洋戦争中が最盛期だった。
大正時代のピークに関しては、亀野住職は「当時の日本の急速な工業化でエネルギーが足りなくなり、亜炭への需要が生まれた」と推測する。

戦争中も同様で、「南方からの燃料の輸送事情が悪化し、石油石炭は軍需優先となった」といった事情が考えられるという。
 


 

Lignite mine (亜炭鉱)の表記が見られる。
米軍Army Map Service:Japan City Plans TypeF 1946(画像提供:亀野哲也)


 
亀野住職によると、港南区の亜炭鉱についての特徴は次の通りである。

(1)港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町に広がっている。
(2)亜炭の採掘は1918(大正7)年、1919(大正8)年ごろおよび戦時中が最盛期。
(3)つるはしを使っての手掘り。
(4)亜炭層は30-35センチの厚さ。空気穴(立て坑)を二本掘り、横穴を約1000メートル掘った。
(5)亜炭層は緩傾斜にあり坑道は横穴だった。
(6)亜炭を運び出すため農道拡張、トンネル掘りも行われた。
(7)明治末から大正期に採掘されたが、一部は戦時中に燃料不足のため再び掘られた。
 


1942(昭和17)年 最戸にあった亜炭鉱坑口 (画像提供:亀野哲也)


「亜炭は工業のエネルギー源としては質が低く、もっぱら町工場やボイラーなど、小規模の燃料として重宝されました。手掘りで、トロッコを使った採掘でした」