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横浜発の陶磁器「横浜焼」って、どんな陶磁器?

ココがキニナル!

横浜産の陶磁器「横浜焼」って、どんな陶磁器ですか? また、現在でも製造されてるんですか? 取材してください。キニナル(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

和と洋が融合した、横浜で作られた焼き物。「形がない」のが横浜焼の特徴。現在も、かつての繁栄を継ぐべく複数の窯元が活動をしている。

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ライター:細野 誠治

そもそも「横浜焼」って?

開港間もない横浜の地。そこに全国の陶工たちが集い、誕生した焼き物。それが「横浜焼」。
最盛期には多く海外に向けて輸出され、その造詣の美しさ・精細さが反響を呼び賞賛されたという。中でも、宮川香山の興した「眞葛焼(まくずやき)」と呼ばれる作品群は最大級の評価を得た(詳しくはこちら)。

眞葛を筆頭とする横浜の窯元も、その多くが震災や空襲により途絶えてしまったが、現在もなお“横浜焼”を名乗り活動を続けている窯元がある。

いくつか存在する窯元のなかで今回、横浜・元町に店を構える「横濱 増田窯」に話を聞くことができた。
なぜ、絶えてしまったとされる“横浜焼”の名を掲げているのか。
 


元町仲通りから代官坂へ。坂の中腹に目指す店がある


かつてペリーが上ったとされる代官坂を行くと、右手に瀟洒(しょうしゃ)なギャラリーがある。
 


こちらが「横濱 増田窯」さん
 

さりげなく看板に配された陶器がかわいい・・・


訪れた日はちょうど横浜焼の絵付け教室が開催されており、ギャラリーには生徒さんたちの姿があった。
 


和気あいあいとした雰囲気


しばし制作風景を見学した筆者。その後、教室がひと段落したところで、代表の増田博一氏に話を聞く。
 


増田博一氏。「はまれぽ見てますよ」とありがたいお言葉




私淑(ししゅく)して横浜焼を伝える

いったん途絶えてしまったとされる横浜焼。どうして今も続いているの?

「横浜焼とは、全国の陶工たちが横浜に集まって研鑽(けんさん/深く究めること)された焼き物です。港がすぐ側にあって、どんどん輸出された。同時に海外の器もたくさん輸入されてきました。もたらされた海外の技術も取り込み、和の器とも洋の器とも違う、東西が融合した作品。それが横浜焼です」
 


和と洋の技術が混ざり合い、溶け合った焼き物たちが並ぶ


さらに増田さんは続ける。「融合。私たちはそんな“横浜焼の精神性”を継承しています。かつての作品の真似ではなく、精神性を継ぐことが継承なんじゃないか? そう思っています。あとはお客様に判断していただこうと。“そうだ”と思っていただければ幸い、“違う”というなら、そうなのかも知れません」

なるほど。和と洋の融合が横浜焼と。ギャラリー内を見れば一目瞭然です。



復興に尽力した増田窯の初代

そんな精神をもとに、横浜焼の復興に尽力したのが博一氏の父・先代の博氏。
横浜の焼き物にいたく感銘を受けた氏が、窯を開いたのは1965(昭和40)年、25歳のとき。かつて宮川香山氏のもとにいた陶工を探し集めて始まったそうだ。
 


先代の増田博氏(横濱増田窯HPより)


この増田博氏、実にパワフルな方で、息子で二代目の博一氏いわく「地元の有名人。熱い人で、思い込んだら何時間でも滔々(とうとう)と語り、次々に思ったことを行動に移してやってしまう人」。

人生を2倍速で生きているような? と聞くと、「まさに、そんな人(笑)。英語が話せないのにアメリカの会社との決済に臨んだり・・・」。勢いや思いで乗り切ってしまうパワーの持ち主だったと容易に想像がつく。

さらに先代は、かなり先を見ていたようだ。「僕の人生は親父(先代)にレールを敷かれていたようなもので」という博一氏の言葉の通り、息子の博一氏を跡継ぎとするべく着々と布石を打っていく。

「これからは海外だ。海外に認められるんだ」と息子の博一氏に英語を習得させるべくインターナショナルスクールに入学させると、その後、博一氏はアメリカの美術大学でデザインを学び、帰国後は有田の源右衛門窯に“丁稚(でっち)奉公”に出されたという。そしてそのまま実家の増田窯を継ぐこととなる。
 


さまざまなテイストの器がある


海外に盛んに進出し、評価を得ている増田窯の器。「実際にやってみて、先代は、ものづくりとしてすごいことをやっていたんだと痛感しました」 と博一氏。