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戦後の動乱期に市民の台所を支えた「公設市場」の名残は横浜市内にまだある?

ココがキニナル!

20年前、六角橋に「六角橋公設市場前」というバス停があったと思いますが、本当にあったのでしょうか。今も残っている場所はある?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

公設市場は大正時代の米騒動を契機に生活必需食料品の廉売のため開設。関東大震災や戦後の混乱期に市民の台所を支えたが現在市営の市場はない

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ライター:ほしば あずみ

「公設市場」は、正式には「市設小売市場」。以前お伝えした「日用品市場」が民営のマーケットであるのに対し、「公設市場」は市が管理運営するマーケットだった。建物の中に複数の出店者が並ぶ長屋のような形態だったようだ。

20年ほど前にあったという「六角橋公設市場前」というバス停。
調べてみると、1991(平成3)年8月に、「神奈川大学入口」という名称に変わったことがわかった。横浜駅西口からだと横浜市営バス36系統などで、10分ほどの乗車となる。

バス停の名前だった「六角橋公設市場」とは、いったいどのような施設だったのだろうか?

 


「六角橋公設市場」があったところには現在マンションが建っている

 


「公設市場」の歴史



1941(昭和16)年5月に横浜市産業部市場課が発行した、「横浜市設小売市場要覧」という本で、その様子をうかがうことができる。
 


「横浜市設小売市場要覧」表紙(国立国会図書館デジタル化資料より)


公設市場が検討されたのは1918(大正7)年の事。この年は全国的に米価が高騰し、8月中旬以降、全国各地で民衆が暴動を起こして米商人や大商人を襲う「米騒動」の嵐が吹き荒れた。
背景にあったのは、1914(大正3)年8月に勃発した第一次世界大戦以来の物価の高騰だった。
横浜市では応急処置として市内10ヶ所に「白米廉売所」を設けたことが功を奏し、大きな暴動発生にはいたらなかった。

この事業を継続させるために市議会は、取り扱う食料品の範囲も広げ「日用品小売市場」開設を決定。1918(大正7)年12月には青木、西戸部、南吉田、本牧の4小売市場が開場した。
また、1920(大正9)年7月に真金、1922(大正11)年2月には港町も新設された。
 


1918~1922年ごろの公設市場


だが1923(大正12)年9月1日の関東大震災により市場は倒壊。本牧、青木の両市場は焼失は免れて避難所となったが、ほかの4市場は焼失した。
震災の10日後には市役所職員たちが白米の配給を巡回販売で行ったが、一樽の梅干し、一つの台車の野菜もたちまち売りつくす状態だったという。小売市場を早急に再開する事が求められた。

「市中物価の高騰を抑制し需要に応じ窮乏をやわらげ罹災市民の救護に資する」ため、バラックやテント張りの仮小売市場を根岸など市内16ヶ所に開設。その後1924(大正13)年8月までに日ノ出町他9ヶ所も追加され、公設市場は計27ヶ所となった。
 


関東大震災後の仮小売市場(クリックして拡大)


ちなみに、表にある「関西村」とは、関西府県連合からの救援で作られた52棟のバラックで、南区中村町につくられた。村内には、図書館の閲覧所や、病院などが設けられたという。

その後、社会秩序の回復とともに、応急施設だった仮小売市場は廃止や隣接地への建て替えなどで整理されていった。震災後、公設市場は6ヶ所まで減少。

1937(昭和12)年7月、日中戦争が勃発するとまた、物価の高騰が激しくなったため、1940(昭和15)年から1941(昭和16)年にかけて市内10ヶ所に公設市場を増設。公設市場は合わせて計16ヶ所となった。
六角橋公設市場は、この時に誕生した。

 

太平洋戦争開戦間際の公設市場。青字が震災後の整理で存続していた6ヶ所の市場
 

開設当時(1941<昭和16>年ごろ)の六角橋公設市場 (国立国会図書館デジタル化資料より)