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久保町、元久保町、東久保町は西区なのに、西久保町だけ保土ケ谷区なのはどうして?

ココがキニナル!

西区・・・久保町、元久保町、東久保町。保土ケ谷区・・・西久保町。どうして区が違うの?もとはひとつだったの?由来を教えて!(PINさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

南区創設と同様、戦時下で警察の管轄に区割りを合わせ、西久保町だけが保土ケ谷区に編入された! 編入された年も南区誕生と同じ昭和18年だった!

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ライター:田中 大輔

鶴見区に東寺尾と北寺尾があって、西寺尾だけが神奈川区にある。
このちょっと不思議な3つの“寺尾”については、先日の「“寺尾”という地名が鶴見区と神奈川区にまたがっている理由は?」で紹介した通り。

この記事でも、それによく似たケースの謎に迫ってみた。
今回の舞台は4つの“久保町”だ。西区に久保町、元久保町、東久保町があり、西久保町だけが隣の保土ケ谷区に存在している。
状況は“寺尾”にそっくりだが、その背景にある事情も同じようなものなのだろうか。それとも・・・。



保土ケ谷駅の東側



まずは、4つの“久保町”の場所を確認しておこう。
 


4つの“久保町”の位置(Googleマップより)


4つの町はJR東海道本線の保土ケ谷駅の東側辺りに隣り合って存在している。
西久保町の一部はかつての東海道や東海道本線の線路の北側にも、その町域を広げているのが分かる。

どの町も住宅街としての色合いが濃いようで、目立つものと言えば東海道と元久保町にある久保山墓地くらい。
 


久保山墓地。その名の通り、小高い場所にある


さて、位置関係を頭に入れたところで、今度はこの4町の歴史について紐解いていこう。



4つの“久保町”ができるまで



この辺り、古くは保土ケ谷宿に含まれていた地域だそうだが、どうやら“久保”という名前が行政上の地名として出てくるのはずっと後のようだ。
 


長い間親しまれた地名だが、歴史的にはそう古くない名前のようだ


1889(明治22)年4月に横浜市が誕生した時点では久保町はまだなかった。
それから10年以上経った1901(明治34)年4月、市の第1次拡張が行われ、橘樹郡(たちばなぐん)保土ケ谷町大字岩間の一部も新たに横浜市の仲間入りを果たすこととなる。
これこそが久保町となった場所なのである。

つまり、久保町は20世紀に入ってからできた町名で、かつ当時は元久保町も東久保町も西久保町も存在せず、久保町というひとつの大きな町だったのだ。
 


このように、ひとつの大きな町だった


そして、1927(昭和2)年を迎える。
区制が始まり、久保町は当初から存在していた中区の一部となるが、このときもまだひとつの久保町のまま。
この久保町が現在のような“久保4兄弟”となるのは1935(昭和10)年に町界町名整理が行われたときのこと。
久保町の町域を4つに分け、久保町、元久保町、東久保町、そして西久保町を作り、町名としては現在と同じ格好になったわけだ。



西区ができるよりも早く



ところが、4つに分かれたこの時期も、まだすべてが中区。
中区同様に横浜区制のオリジナルメンバーである保土ケ谷区は存在していたが、現在、久保町、元久保町、東久保町のある西区の登場は、中区からの分区で誕生する1944(昭和19)年まで待たなければならない。
 


現在の西区役所。分区当時は区役所も間に合わなかったそうだ


この辺りの歴史を考えると、この西区誕生に際してなんらかの理由で西久保町だけが保土ケ谷区に編入されたのかな、と思ってしまう。
しかし、西久保町が中区から保土ケ谷区に移籍したのは、実は西区分区の前年のことなのだ。

この1943(昭和18)年にも、横浜の歴史を語る上で欠かすことのできない出来事があった。
ピンと来る人もいるかもしれないが、この年は西区に先んじて中区から南区が分区された年なのだ。
意外と知られていないかもしれないが、これと同じタイミングでいくつか区域の変更が行われていたのだ。