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かつて六角橋は牧場だったってホント!?

ココがキニナル!

昭和20年ごろまで六角橋交差点のあたりに「房陽舎牧場」という牧場があったって本当?小川牧場と関係があった?房陽舎牧場の屋敷神の「箭弓稲荷神社」は東松山の「野球神社」?(ねこぼくさん/三ッ沢さん)

はまれぽ調査結果!

明治から戦後すぐまであった「房陽舎(ぼうようしゃ)牧場」。小川牧場とは無関係で箭弓稲荷(やきゅういなり)神社は「野球神社」から分祀されていない

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ライター:ほしば あずみ

六角橋に牧場が



1945(昭和20)年といえば、太平洋戦争が終戦を迎えた年。投稿によるとそのころ六角橋交差点付近に「房陽舎(ぼうようしゃ)牧場」という牧場があったという。
調べてみると、牧場はその後、「末廣園」という和食料理店として当地で営業しているとのこと。
さっそく、お店でその歴史をうかがう。
 


東急東横線白楽駅より徒歩約8分、「末廣園」外観
 

別館も隣接。お座敷で本格的な和食料理をいただける
 

お話を聞かせてくれた店主、鈴木喜也(よしや)さん


「房陽舎は曽祖父、鈴木春吉(はるよし)が明治時代にこの地ではじめた牧場です。100年くらい前の話ですね。この地での商売は私が四代目です」と鈴木さん。
 


明治終わりから大正初期にかけての房陽舎牧場(提供:末廣園)
 

写真にうつっているのが初代の春吉さん


初代である春吉さんは、千葉の丹生(にぶ/現在の千葉県南房総市富浦町)出身。鈴木さんによると、当時、千葉出身者は牧場を経営することが多かったのだという。
明治時代、現在の東白楽の駅裏あたりに「乾(いぬい)牧場」という名の牧場があり、春吉さんはそこに勤めたのちに、「房陽舎牧場」を興した。
「初代は房陽舎の“房”を、房州(千葉県)にちなんで名付けたのかもしれませんね」と鈴木さん。

ちなみに、キニナル投稿にあった六角橋交差点から徒歩5分ほど、近隣の六角橋6丁目にあったという「小川牧場」とは特に関係はない。

ところが春吉さんは1914(大正3)年ごろ、不慮の事故により33歳という若さで他界。
三代目の喜之助(きのすけ)さんは1906(明治39)年生まれ、当時はまだ数え年で9歳くらいだったので、春吉さんの母である「ソヨ」さんが二代として受け継いだ。
そのため、写真や詳しい話などは残っていないそうだが、1941(昭和16)年生まれの喜也さんのものごころがついたころは、乳牛が40頭ほど、荷役用の馬が5、6頭いたという。
また、近くにある横浜専門学校(現在の神奈川大学)の学生向けにミルクホールも経営していた。
 
付近にあった牧場は房陽舎牧場と合わせてこの3舎で、あとは田畑が広がっていた。
 


1933(昭和8)年ごろ、六角橋周辺の様子(c)神奈川大学デジタルアーカイブ


1941(昭和16)年といえば、太平洋戦争開戦の年。悪化する戦況に房陽舎もやがて牧場経営を休止。そして空襲により牧場は全焼し、牛馬も失ってしまったという。
 


末廣園の裏には、空襲で死んだ牛馬の供養塔がある


「六角橋あたりは被害がひどかったんだけど、道路一本はさんだ先にある斎藤分町は焼けなかったんだ。そこに住んでた人たちは、房陽舎が焼けたおかげで助かったっていうわけ」
 


今も昔も住宅街が広がる斎藤分町


それは、空襲で牛馬が焼けたおかげで肉を食べることができた、ということらしい。
興味深いが、悲しい、戦下のエピソードである。