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花月園競輪場の前身「花月園」が東洋一の遊園地だったって本当!?

ココがキニナル!

花月園、競輪場の前は遊園地で、しかも東洋一と謳われていたそうです。どんなすごい遊園地だったのでしょう? (河童丸さん、ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

花月園はホテルや著名人が集うダンスホールも併設し、大正末期から昭和初期に最盛期を誇った東洋一と謳われるすごい遊園地だった!

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ライター:吉田 忍

はまれぽでは「花月園の敷地の予定は?」で取り上げているが、跡地が何になるのか話題の鶴見区にある花月園競輪場。続報を少しご報告すると、競輪場跡地と隣接する民有地を含めた計10.5ヘクタールのうち北側約4.5ヘクタールを公園にし、南側には住宅用地を整備するという計画で、2014年度中の事業着手を目指しているそうだ。

さて、この場所だが競輪場になる前は遊園地だったらしい。しかも「東洋一」といわれるほどだったという。いったいどんな遊園地だったのだろう。
 


競輪場(跡)へ登る坂道の途中に遊園地だったことを記す看板がある
 

競輪場へ登る坂道の町内会館にある灯籠は遊園地にあったものらしい
 

直径1メートルほどもある桜。開園時に1万本が植えられたという


ほかにも基礎の跡など、遊園地当時のものが今でもほんのわずかに残っているそうだが、そこから遊園地だったことを想像できるものはない。

まずは歴史を調べてみた。
 


花月園遊園地の略歴



花月園は、平岡廣高(ひらおかひろたか)によって1914(大正3)年に遊園地として開園。2万5000坪(東京ドーム1.8個分)の広さだった。

大正末期から昭和初期に最盛期を迎え、1日に7万人の入場者を数える日もあったという。開園以降拡大を続けたきた敷地は、国内有数の規模となり10万坪と公称していた(実際は7万坪程度だったらしいが)。日産スタジアムの建築面積がおよそ5万坪なのでそれよりも広かったのだ。

花月園は、施設も充実し、「東洋一の遊園地」としての地位を確立した。
 


看板にある絵の部分。全盛期の花月園全景とある


しかし、大正末期に多摩川園が開園するなど、私鉄沿線に次々と同様な遊園地が開園し競争が始まる。また1931(昭和6)年にオープンした松屋浅草店は、日本で初めてデパートの屋上に遊戯施設を設置した。その後多くのデパートが同様に屋上に遊園地のような設備を作るようになるのだが、そうした流れに人々は徐々に新しいものに心を奪われていく。

そして、1933(昭和8)年に600万円(現在に置き換えると約4200億円)の負債を抱えることになり、およそ20年間、平岡廣高の個人経営であった花月園は、大日本麦酒、京浜・湘南両電鉄が中心となって設立した株式会社花月園に経営権を譲渡。

その後、経営権は多摩川園を経営する東急電鉄、続いて日本鋼管などが設立した京浜工業協会(後の鶴見工業会)へと変わっていく。
 


現在の避難場所を示す看板だが、緑色部分あたりすべてが遊園地だったようだ


この看板を見ると、まだ日本鋼管の社宅が記されており、遊園地だった敷地に日本鋼管が社宅を建てたのがわかる。

第二次世界大戦中には、遊具に使われていた鉄は供出され、園内の高台には高射砲が設置されていたという。鶴見三業地の取材のとき、この地でアメリカの爆撃機を撃墜した話を聞いたが、ここの高射砲だったのかもしれない。

ライバル遊園地の出現や娯楽の多様化で衰退しつつあった中で、戦争が追い打ちをかけた。花月園は1946(昭和21)年11月に閉園を迎える。

戦後も細々と運営されていたようだが、華やかな遊園地だったのは1930年代までのようなので、遊園地に行った記憶がある方はもういないだろう。

筆者は前出の鶴見三業地の記事を書かせて頂いているが、実はその取材時に花月園遊園地を調査するのにこれ以上はないという素晴しい方に出会っていた。

鶴見歴史の会に在籍されていて『鶴見花月園秘話(非売品)』という本を執筆された齋藤美枝さんだ。さっそく連絡をとってみた。
 


快く取材を受けていただき、いろいろ教えていただいた

 


平岡廣高の人物像



花月園を作った平岡廣高は、1860(万延元)年に多賀右金治(たがうきんじ)の次男として誕生。祖父は唐津藩六万石小笠原江戸家老。

母方の平岡家が跡取りに恵まれなかったため廣高が養子となったので平岡姓なのだが、平岡家もやはり唐津藩上位の家老であった。

武家社会が続いていれば、廣高も家老になっていたのだろうが、1868年に年号は明治となる。特に上位の武家は刀を捨て料亭経営などを始めた。
 


平岡廣高(※鶴見花月園秘話より)


廣高の人物像を伝えるものとして、彼が語ったことが次のように残っている。

「7歳のとき新橋の料亭として鳴った『花月楼』に養子に行ってから商売が商売だけにマセちまった。学問はいたって無学だったが、酒と女の学問は究めて優秀で16歳のときに堂々花柳界に足を入れて立派な道楽界の遊蕩生(優等生の洒落)だった。だから、花月の息子といえば、『そうとうなもん』だった。私はたいした色男じゃないが、花月の若旦那、若旦那でずいぶんモテたもんだ」

放蕩ぶりは筋金入りで女性関係もかなり派手だったようだ。

当時の新橋は柳橋とならぶ花街で、政治家や実業家たちに利用されていた。花月楼は新橋にあり、政財界人が利用する高級料亭で、伊藤博文、犬養毅、大隈重信という錚々(そうそう)たる政治家もよく訪れたという。

1911(明治44)年、新橋の芸者だった静子婦人(ちなみに2人目の奥さんで、最初も元芸者だった)とヨーロッパ旅行をしたとき、フランスのブローニュの森の一角にあった子ども向けの遊園地を訪れ、日本にも同じような遊園地を作る決意をしたという。ヨーロッパでは遊園地は元々、王侯貴族のためのスポーツ設備や飲食施設があるもので、子ども向けは珍しいものだった。
 


静子夫人。髪型や着物の着こなしのモデルだった写真(※鶴見花月園秘話より)


当時の芸者は流行の最先端を行く女性で、ファッションモデルのようなこともしていた。一方、廣高は家老家の生まれで実業家。今でいえば、若手実業家とアイドルのような夫婦を想像すると分かりやすいかもしれない。

そして帰国後、東京と開港の地横浜の中間で、東福寺の敷地の一部を借り受け「花月園」を実現することになる。当時の入園料は大人50銭(現代の500円程度)、子ども30銭だった。