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かつて横浜スタジアムで行われていた「音楽の甲子園」、ホットウェーブフェスティバルについて教えて!

ココがキニナル!

かつて横浜スタジアムで毎年開催されていたホットウェーブフェスティバルのその後が気になります。私が行った回はJUDY AND MARYがゲストでした。今後は開催されないの? (あぐねすちゃんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1981年夏から計19回開催されて幕を閉じたが2008年第20回で一時復活。今後の開催は未定だが当時の出演者が高校生も参加できる音楽祭を企画中

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ライター:桐生 由美子

高校生による高校生のための音楽祭


 
1981(昭和56)年に横浜で生まれ、1998(平成10)年まで18年間続いた、高校生の手づくりのバンドコンテストがあった。
 
正式名は「YOKOHAMA HIGH SCHOOL Hot Wave festival(ヨコハマ ハイスクール ホットウエーブフェスティバル)」(以下ホットウェーブ)。
 
ホットウェーブは当時の高校生にとって、誰もが主役になれる「音楽の甲子園」と呼ばれる音楽の祭典だった。出演者とスタッフのすべては高校生。横浜市教育会館、神奈川県民ホール、そして横浜スタジアムで第19回大会まで開催され、幕を閉じた。

そして最終大会から10年経った2008(平成20)年。当時の出演者やスタッフらにより、第20回大会が横浜関内ホールの大ホールで開催された。8組の出場者とスタッフは過去のホットウェーブ参加メンバー。入場料1500円のチケットは即日完売だった。

 

第1回大会からサポートしていた嶋本照彦さんが代表を務める
株式会社ペッププランニングが制作する
ホットウェーブのwebサイト
 



そもそもホットウェーブはどうやって生まれたのか?



第2・3回に1950年代風のロックンロールバンド「Dramatic 50’S(ドラマティックフィフティーズ)」で出演した川戸昌和さん、第2・3回大会に音響班で参加したスタッフの青木誠さん、第6回にバンド「いんぐりもんぐり」で出場し、サマーグランプリを獲得した永島浩之さんの3人に当時を振り返りながら今後についてもお話を伺った。

 

左から川戸昌和さん(49歳)、青木誠さん(49歳)、永島浩之さん(46歳)
 

取材場所に選んだのは、よく3人で集まるというJR関内駅から徒歩約5分ほどにある「北海茶屋 殿(との)」。偶然にも当時、この相生町中央ビルの3階にホットウェーブの生みの親、山本進一さんが経営する貸しスタジオ『スタジオ3』があったのだという。

 

相生町中央ビル2階にこぢんまりとある「北海茶屋 殿」
 

オーナー「殿ちゃん」の地元、北海道から直送する食材を使った料理と昭和の歌謡曲が楽しめる
 

さっそくホットウェーブが生まれたきっかけを聞くと、「ホールを借りる資金もない、でもやる気だけはある高校生バンドマンたちに演奏する場を与えてあげたいという思いではじめた、とホットウェーブ生みの親である山本進一さんから聞いたことがあります」と青木さん。

第1回大会の予選は、1981(昭和56)年8月25日と26日、決勝はその翌日の8月27日。どちらも横浜市教育会館で開催された。
 
当時から神奈川県民ホールや市民ホール(現在の関内ホール)、横浜野音(当時横浜スタジアムの奥にあった野外ステージ)などがあったが、ロック系の音楽を高校生が演奏するとなると、会場を貸してくれたのは唯一横浜市教育会館だけだったという。

 

毎年撮影したという出演者と実行委員の集合写真!
(写真提供:株式会社ペッププランニング)
 

横浜スタジアムが満席になるほどの人気!
(写真提供:株式会社ペッププランニング)
 

ホットウェーブのwebサイトによると、第1回大会観客動員数600人、スタッフ48人、応募テープ数360本という記録が残されている。

第2回大会は甲子園を意識し、1982(昭和57)年3月31日(決勝)に開催。トライアル的にやった春大会だったが、「高校生には年2回はちょっとハードすぎる」と、春に行ったのはこの回のみ。その後第3回~19回大会までは夏に行われていたため、あるときから「音楽の甲子園」と呼ばれるようになった。

 

「Dramatic 50’S」のメンバー。中央が高2のころの川戸さん
 

写真はホットウェーブ第2回大会が開催された横浜市教育会館の楽屋口。

 

そして現在の川戸さん・・・。渋い・・・
 

第2回大会までは横浜市教育会館で開催していたが、参加人数がだんだん増え第3回の決勝大会は神奈川県民ホールに。観客動員数は2500人まで増え、応募テープ数は500本を越えた。もちろんその人数を管理するため、スタッフの数も100人以上まで増員された。
 
このころから「ホットウェーブに出演するのが夢!」という高校生が増え、その人気は県内だけでなく全国にまで広がっていった。

そして第6回の決勝大会からは、高校生たちが「いつかやりたい!」と思い続けていた「横浜スタジアム」に! 観客動員数はなんと1万7000人! 応募テープ数は1218本にまで増えたと記録に残っている。
 
そしてその勢いは止まらず、その翌年の第7回大会の観客動員数は2万人を越えた。

 

「いんぐりもんぐり」3枚目「大嫌いっ!」のレコードジャケット。下段左が永島さん
 

そして現在の永島さん・・・。おちゃめ・・・
 



ホットウェーブはこんなふうに成り立っていた!



出演バンドや実行委員はどうやって集めていたのか聞くと、「参加バンドと一緒に、実行委員も公募。当時はインターネットがまだ普及していなかった時代なので、横浜市内の貸しスタジオや楽器屋なんかに応募用紙みたいなものがおいてありました」と青木さん。

 

青木さんは現在も音響や照明の仕事をしている
 

また実行委員は企画班、音響班、美術班に分かれ、それぞれにサポートしてくれる大人が数名いたが、実際に動くのはすべて高校生のボランティアだった。
 
「僕は音響に興味があったので、音響班で参加。参加したのは第2・3回大会で、2回は確か5人くらい、3回は15人くらいでやったのを覚えています」と、青木さんは当時を振り返る。

 

「ズームイン!! 朝!」や「おはよう700」など
朝の情報番組にも自分たちでPRに行ったという
 

全バンドの演奏を見たあと、観客は用紙にバンド名を記入して提出。集計結果は、最後に発表された。賞はサマーグランプリを始め、パートごとに与えられるベストプレイヤー賞など。

集計中はゲストのステージが行われていたのだが、そのゲストが大物ぞろい! 桑田佳祐さんと原由子さんにTHE ALFEE、爆風スランプ、大友康平さん・・・。キニナル投稿にあった「JUDY AND MARY」は1995(平成7)年第16回のゲストだ。
 
ただし、「あくまでも高校生の演奏を聴いてほしい」というホットウェーブの趣旨により、ゲスト名は当日まで公表しないことが約束だった。

 

「俺が出たときは桑田さんがゲストだったけど、
集計結果が気になってあまり覚えてないんだよ・・・」と川戸さん
 

「俺たちのときは爆風スランプ。大好きだから集計のこと忘れて夢中で見てたよ!」と永島さん
 

大会開催日はチケットをゲットするために朝から長蛇の列ができていた!
(写真提供:株式会社ペッププランニング)
 

全国、海外からもバンドが参加するほど有名になった音楽祭だったが、不況の波には勝てなかった。協賛してくれていた企業が徐々に減り、高校生の力だけでは運営することは不可能になり、第19回大会を最後に高校生たちの熱い夏は幕を閉じた。

 

最後の大会開催後、新聞に悲痛の声や復活を望む記事が掲載されていた
(写真提供:株式会社ペッププランニング)