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横浜初の女子校! 横浜出身の大女優「原節子」を輩出した「横浜高等女学校」について教えて?

ココがキニナル!

私立横浜高等女学校は中区の元町にあり、その校舎には女優の原節子が通っていたって本当でしょうか?また山月記を書いた中島敦が教師としていたそうです。詳細知りたいです。(Yokoyokoさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

原節子は横浜高女の生徒だったが、中退しているので資料がない。教師だった中島敦は生徒たちの人気者だった。

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ライター:松崎 辰彦

明るく、人気者だった敦



今では教師時代の中島敦の素顔を語れる人は多くはない。田沼清子さんは、そんな数少ない一人である。彼女は敦が横浜高女にいた当時、6歳から14歳で彼の授業を受けていたわけではないが、敦を慕ってよくそばをついて回ったという。

「敦先生は、東大でも極めて優秀で、どうか大学に残ってほしいと関係者も思っていたんです。しかし体が弱く、教壇に立てないだろうと懸念された。
当時の理事長だった田沼勝之助(かつのすけ)はそれを承知で、敦先生を受け入れました。勝之助は敦先生のお爺さんである中島撫山先生の弟子だったからです」
 


田沼勝之助理事長
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)


国語教師を探していた田沼勝之助氏は、おそらく欠勤が多くなろうが、それを承知の上で、中島敦を受け入れたというのである。

敦は朝日新聞の入社試験も受けたが、身体検査で落ちている。体力的に無理と判断されたのではといわれている。当時は就職難の時代で、敦も“最近は履歴書ばかり書いている”と人に宛てた手紙の中でボヤいている。

晴れて横浜高女の教員となった敦は、どのような先生であったか。私たちは『山月記』の作者には、暗く陰鬱(いんうつ)な性格をあてはめたくなるが、実際の敦は明るく、人が寄ってくるタイプだったという。 快活で、生徒の人気も高かった。
 


横浜高等女学校学友会発行『学苑』に掲載された生徒による中島敦評。
(『図説 中島敦の軌跡』より)


あるとき、生徒がノートに自分で小説を書いて敦に見せた。ところが、話が途中で終わっている。最後に「この続きはまた明日」と書かれていた。
これを読んだ敦は“これはいい、おもしろい!”と大喜びしたという。

またある日突然、学校で生徒全員の持ち物検査が行われた。その際に一人の生徒のカバンから、ブロマイドが出てきた。すると学校は保護者を呼び、厳しく注意した。当時の横浜高女はこういう点が厳しかったのだ。

その様子を見ていた敦は一言「くだらないことをするなあ」とほかの生徒に呟いたそうである。学校側の硬直した対応に、反感を見せたのだった。
 


1935(昭和10)年、教職員一同と 前列右から2人目が敦
(『図説 中島敦の軌跡』より)


授業中、彼は生徒に教科書以外のさまざまな本を読み聞かせた。漱石や芥川の小説をよく読み、生徒もそれを楽しみにしていた。

生徒に作文をよく書かせ、必ず読んだ感想を書いて返却した。あるとき一人の生徒が他人の書いた文章を、自分が書いたように偽装して提出したところ、「これは君の文章じゃないよ」と怒気を含んで叱りつけた。目撃者によると、それ以外には見たことがないほど迫力があったという。文章に関しては「てにをは」の使い方に厳格で、誤りを許さなかった。



1時間教えただけで生徒の成績を伸ばした“トンさん”



まだ幼かった清子さんは職員室での敦の様子を憶えている。
「当時、横浜高女には野田蘭洞(らんどう)という優秀な書家の先生がいました。敦先生は野田先生と机が近く、非常に仲良しで、いつもニコニコして話をされていました。お話の内容も品があって、これが一流の人たちかと思いました」
 


下段中央が野田蘭洞。右隣が敦
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)


「野田先生は敦先生に、漢字についてよく質問をなさったのですが、いつも敦先生からはたちどころに答えが返ってきました。敦先生も性格のいい方ですから、『野田先生のあの字の、撥ねるところなんかいいですね』などと誉めたりされました」
 


野田蘭洞の書


敦は教師としても、非常に優秀だったようである。こんなエピソードがある。
「あるとき、数学の先生が病気で休まれたんです。そんなときは自習になるのが普通ですが、若い女の子たちが黙って勉強するわけがありません。おしゃべりで騒がしくなり、両隣の教室に迷惑をかけることになります」
 


上・英語の授業 下・化学の授業
 

上・幾何の授業 下・割烹(調理)の授業
 

上・裁縫の授業 下・お弁当の時間
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)


「それで職員室にいた敦先生が『ちょっとボク、行ってきます』とその教室に行かれたそうです。そして生徒に数学の教科書を見せてもらい、『どのページをやっているの?』と聞いて、その場でご自分が数学の授業をされたんです」

「驚いたことに、その後学年全体で行われた数学のテストでは、敦先生が1時間だけ授業をされたそのクラスが、一番成績がよかったそうです」
 


1937(昭和12)年1月 雑誌部の新年会で(『図説 中島敦の軌跡』より)


またこんなことも、清子さんは憶えている。
「テストが終わって、各教師が自分の席で答案の採点をしていたときです。敦先生の机の向かいには、数学の先生がいて、採点をしていました。敦先生も、当然ご自分の受け持ちの答案を採点していました」

「やがて採点が終わった教師が一人去り、二人去り、残ったのは敦先生と数学の先生、そして私の父の田沼要人(かなめ)だけになりました。そのとき、敦先生が数学の先生に口を開いたのです」

「『先生、○年○組の△△△子の答案をもう一度、ごらんになったらいかがでしょうか?』驚いた数学の先生が確認すると、たしかに採点間違いが見つかったというのです。数学の先生も、これには本当に恐縮したということです」

同僚教師に恥をかかさぬよう、敦はできるだけ人が少なくなるのを見計らって声をかけたのである。
 


同僚たちと 横浜高女で 1938(昭和13)年


「答案を上下反対から見ていたのに、よくわかりましたよね。要人はいっていました。『東大を出たあれだけ頭のいい人が、まわりがいなくなるのを待って注意した。だからねえ、あの脳味噌だけはもらえないけど、あの人格は学びたいな』と」
こんな敦は、親しい同僚教師からは“敦”の音読みで「トンさん」と呼ばれていたそうである。



「尊厳」を持っていた中島敦



こんな敦は生徒の間でも人気者で、特に敦に心酔していた生徒が2人いた。彼女たちは、敦の授業の前になると教卓にバラの花を一輪さした花瓶を置いて敦を待ち、授業が終わると花瓶を撤去したという。
この“バラ伝説”は有名なのだとか。
 


横浜高女昭和16年卒業生クラス会 1942(昭和17)年7月26日
敦の生前最後の写真(『図説 中島敦の軌跡』より)


清子さんは小学2年生から5年生まで喘息で苦しんだが、女学校に入ると治癒した。敦はそれを見て「清子ちゃん、治って丈夫になってよかったですね」と非常に喜んだという。喘息の辛さを誰よりも知っていた敦にとって、清子さんの喘息克服はわがことのようにうれしかったのだろう。

清子さんは回想する。
「敦先生は、なんでもできる先生でした。中区本郷町のご自宅から学校まで歩いて通勤されたのですが、あるとき、『今日は歩いているときに、頭の中で短歌が300首できた。忘れないように書いておこう』と巻紙に書き写されました」

 

山手界隈が敦の散歩コース。『かめれおん日記』には外国人墓地が登場する。
現在、同地に彼の記念碑がある
 

敦の作品に関して、登場人物を敦と同一視する見方には反論する。
「『山月記』に登場する虎になった男は、敦先生が自分自身のことを書いたのだという人がいますが、それは違います。敦先生は尊厳を持っておられた方です」

敦を“近代の文豪”と呼び、今でも絶対的な尊敬をゆるがせにしない清子さん。現在、横浜学園には「中島敦の会」があり、敦の作品研究や人物研究が行われている。
 


横浜学園にある中島敦の展示コーナー(『ゆかりの白梅』より)
 

敦の思い出が語り継がれている


中島敦関係のさまざまな写真や資料が展示されている
 

「中島敦の会」では多くの研究がなされている




取材を終えて



「敦先生が33歳で亡くなったことが無念でなりません」
清子さんはいう。たしかに類まれな才能の夭逝(ようせい)は、日本文学にとって大きな損失であった。芥川や太宰のように自ら死を選んだのではなく、敦は病床で「書きたい、書きたい」と目に涙をためて呻きながら、死の訪れを待つしかなかったのだ。新進作家として注目され、原稿依頼も増えてこれから大輪の花を咲かせようという矢先であった。
 


若くして亡くなった中島敦(『図説 中島敦の軌跡』より
初出は『昭和十三年三月 第三十七回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉)
 

元町幼稚園の中にある敦の文学碑
 

説明板


『山月記』だけが中島敦ではない──清子さんはいう。そうした意見を待つまでもなく、敦にはみずからの教師生活を投影したような『かめれおん日記』と題する作品もあり、彼が常日頃、孤高狷介(ここうけんかい)な世界にばかりいたわけではないことが窺える。いつも快活で、水泳やビリヤードが得意だったという一面も、今回の取材で知った。

原節子にまつわる資料が皆無、というのは何とも残念だが、空襲のあった横浜ではこうした事態は避けられない。80年という茫々(ぼうぼう)たる歳月もあり、ご理解願いたい。

当時の横浜高女は中島敦や渡辺はま子のほか、野田蘭洞、そして岩田一男(英語の大家)なども擁し、実に逸材の教員が揃っていた。横浜の一つの学校に、ある時代これだけの人材が結集していたことは、それだけでも興味深い。

なにより今回の取材で、これまでいま一つ入り込めなかった中島敦の世界に、深く潜入できたのは大きな収穫だった。


─終わり─


取材協力
横浜学園
http://www.yokogaku.ed.jp/

参考文献
『図説 中島敦の軌跡』(中島敦の会)
『ゆかりの白梅』(横浜学園)
ほか
 

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  • この記事で、中島敦の(山月記以外の)作品に俄然興味がわきました。さっそく読んでみます。良い記事をありがとうございました。

  • 本人を知る人から話が聞けたのは幸いでしたね!いきいきしたエピソード、楽しく読みました。

  • 中島敦の「中国物」は、私の「中国物」好きのきっかけでした。上品で美しい文章は、情景が目の前に浮かんでくるものばかり。ところで、私の伯母も2人、ここのOGがいます。所謂昔の「第2高女」ってヤツで、「第1」に行けなかった人が通っていた学校でして。父曰く「バ○の受け皿」だったそうで。岡村出身の友人に言わせると「岡村中学→横浜学園」というのが女子の「バ○のエリートコース」だそうです。共学になってから「品の無さ」が加速したとか。原節子が卒業してたとか、中島敦が教師やってたことは知っていましたが、今となっては全然違う学校のことみたい。ちなみに、女子プロ最強の男・神取忍さんもここのOGですね。

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