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横浜から始まった日本初の国産石鹸が今でも買えるって本当?

ココがキニナル!

横浜は石鹸も発祥の地で、堤磯右衛門という実業家が製造に成功したそうです。当時の石鹸が復刻され一般にも販売されているらしい。復刻に至った経緯やその使い心地などがキニナル。(だいさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

堤磯右衛門(つつみ・いそえもん)は、日本初の国産石鹸を製造した磯子の人物。一度復刻した石鹸をもう一度復刻したいという思いが形になった。

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ライター:松崎 辰彦

石鹸は横浜から始まった



日常私たちが清潔を保つために使う石鹸。現在ではありふれた雑貨だが、江戸時代以前の一般庶民には縁のないものだった。明治時代に入って多くの日本人は、初めてこの油脂を用いて作る界面活性剤(水分と油分を混合させる物質)で体を清潔にすることを覚えたのである。

 

横浜市にある
太陽油脂の石鹸
 

その端緒(たんしょ)は、やはりここ横浜。磯子に住んでいた一人の進取(しんしゅ)の気概に富んだ人物の努力により、庶民にも手に入る国産石鹸第1号が作られたのだった。
投稿にあるように、現在その石鹸が復刻され、話題にもなっている。その様子を取材した。



国産石鹸の祖・堤磯右衛門



日本にはかつて石鹸というものは一般には使われず、たとえば服の汚れを落とす場合には、灰汁(あく)が使われるなどしていた。

ただ石鹸がまったくなかったということではなく、江戸時代の蘭方医・宇田川玄真(うたがわ・げんしん)とその養子である榕菴(ようあん)が医薬品として石鹸を作ったといわれている。
なお、日本人が初めて石鹸に出会ったのは安土桃山時代で、西欧から伝えられた石鹸を、織田信長や石田三成といった武将たちが使用したとのことである。

 

石田三成(フリー画像より)
 

こうした先達を経て、日本で初めて商業ベースで石鹸を作ったのは本日の主人公である堤磯右衛門(つつみ・いそえもん)である。
堤磯右衛門は1833(天保4)年、磯子村の名主の家に誕生した。当時の磯子は漁村で、磯右衛門は網元でもあったといわれている。
彼が21歳のときにペリーが来航した。久里浜に上陸した彼らは幕府に国書を渡し、再来航を約して日本を離れた。

その後、幕府は江戸防衛をはかり、砲台場建設に尽力したが、そのとき磯右衛門も下請けとして参加し、村人を指揮して木材や石材を現場まで運搬した。

 

堤磯右衛門(画像提供:堤真和)
 

しかしこの砲台場建設は、ペリーの再来航により中断した。
横浜で日米和親条約が結ばれ、やがて時代は鎖国から開国へと歩んでいった。



国産石鹸第1号を作った磯右衛門



磯右衛門が30代のとき、幕府はフランスの協力を得て、横須賀に造船所を建設した。磯右衛門は縁あってその造船所で働き、仕事の采配を振るう立場にあったが、仕事が終わって手を洗うとき、自分はなかなか汚れが落ちないのに、フランス人技師はたやすく汚れた手をきれいにしている。彼は石鹸を使っていたのである。なにそれ? いいものだね・・・というわけで磯右衛門は石鹸というものを知った。

造船所の仕事が終わり磯子に帰った磯右衛門は、石鹸の製造を決意した。製法はフランス人技師から聞いたというが、いざ開発に入ると実に苦心惨憺(くしんさんたん)し、多くの財産を注ぎ込み、果ては巨額の借財まで余儀なくされた。

こうしてようやく国産の石鹸が誕生し、商品化されたのは1873(明治6)年のことである。現在の横浜市南区の三吉演芸場付近に日本初の石鹸工場が建設され、最初に洗濯石鹸、翌年の1874(明治7)年に化粧石鹸の開発に成功した(彼の工場は日本で初めて労働時間などの「就業規則」を設けたものとして知られている)。

 

南区にある
磯右衛門の石鹸工場の跡
 

彼の作った石鹸は評判も上々で、各地の品評会で高い評価を受け、海外に輸出されるまでになった。また製法を学びたいという人も現れ、磯右衛門はそうした研修生に技術を伝授した。

磯右衛門は59歳で風邪をこじらせて亡くなったが、彼の子どもは女の子ばかりが残り(男の子も生まれたが幼くして亡くなった)、事業として継続できず、「堤石鹸製造所」は一代で途絶えた。
しかし彼の教えを受けた職人が全国に散り、花王など多くの石鹸関連企業の技術的な部分を担ったとされる。
日本の近代石鹸産業の祖である堤磯右衛門だが、横浜が多くの文物の発祥地であることに光が当たるなか、彼もまた、人々の関心を引いている。



常にワクを超えることを考えていた磯右衛門



「私の母が磯右衛門の孫の孫にあたります。私が24、5になるまで、磯右衛門の孫である曾祖母が生きていました」
こう回想するのは磯子に住む堤真和(まさかず)さん。ご自分でも説明されたように、磯右衛門を初代(1代)と数えると6代目、来孫(らいそん)にあたるという人物である。

 

堤真和さん
 

磯子の広いご自宅でお話を伺った。
「この土地は磯右衛門が入手したものですが、彼自身は住まなかったようです。磯右衛門の家はここではなく、磯子のほかの場所にありました」
磯右衛門は石鹸工場設立後は、工場の敷地内に住み、磯子の家は留守にしていたようである。

「曾祖母は磯右衛門が亡くなったときはまだ7歳か8歳くらいでしたから、それほど深い交流があったわけではなく、あまり話もしなかったと思います」
曾祖母から、真和さんは磯右衛門に関する逸話などを聞いた記憶はないという。ただ真和さんにしても磯右衛門について“日本で初めて石鹸を作った人物”ということはもちろん聞いていた。

 

磯子の堤家でお話を伺った
 

石鹸事業は磯右衛門一代で終わり、堤家であとを継ぐ者はいなかった。何より磯右衛門亡きあと、真和さんまで男の子が一人も生まれなかったというから驚く。
「私が待望の男の子でした。それまでは、女の子が生まれては婿養子をとり、また女の子が生まれては婿養子をとるという繰り返しでした」

 

工場で従業員が着ていたというハンテン
 

真和さんにも男の子が生まれ、その息子も結婚して、やはり男の子をもうけたので安心しましたと笑う。

磯右衛門に関して“今の自分に満足せず、常にワクを超えることを考えていた人”と感じるという。
「石鹸のほかにも、彼は灯油の製造やレンガの製造なども試みていますが、政府が承認したのは石鹸だけでした。その石鹸のために彼は莫大な借金をしましたが、成功したからよかったものの、もし失敗していたら大変なことになっていたと思います」

 

当時の堤石鹸製造所
 

磯右衛門は武士に憧れていたようで、剣術の稽古もしていたし、幕府から沿岸警備を仰せつかったときには、刀を差すことが許され、大変喜んだそうである。また黒船がきたときには手こぎ船でそばまで近づいて、自分で絵を描いて残している。旺盛な好奇心と進取の気概が感じられる。