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横浜から東京オリンピック目指せ!全国大会5連覇中の松本圭佑くん

ココがキニナル!

横浜在住で15歳のボクシング選手、松本圭佑くん。U-15日本チャンピオン4連覇、元フェザー級東洋太平洋王者のお父さんと東京五輪出場を目指してます。横浜から東京五輪メダリストが出るかも。(なお♂さん)

はまれぽ調査結果!

U‐15ボクシング全国大会で5連覇した松本圭佑君。トレーナーでもあるお父さんの弘司さんとともに目指すのは「東京オリンピック」出場!

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ライター:三輪 大輔

横浜に2020年の東京オリンピックで、メダリストになる可能性のあるボクサーがいるという情報を得た筆者とノブナリさん(編集部・小島)。しかも、お父さんも元ボクシングチャンピオンとのことで、まさに親子鷹である。

横浜から金メダリスト誕生か!?

いったい、どんな選手であるのだろうか。早速、松本圭佑(まつもと・けいすけ)くんが練習を行っている神奈川区鶴屋町にある大橋ボクシングジムに行ってみることにした。
 


大橋ボクシングジムの入り口の看板




ボクサー「松本圭佑」の誕生



「いつも通り生活していった先に、試合があると思っています。5連覇は意識していませんでした。一つひとつの試合に同じような気持ちで臨んでいって、その試合に勝つのが嬉しいですね」

手足の長いスラッとした体躯の彼が質問に答えてくれた。こちらの意図を読み取って、期待以上の答えを返してくれる。実に落ち着いた受け答えだ。ただその顔には、確かに少年の面影が残っている。まだ15歳。磯子区岡村中学の3年生である。しかし彼こそ、U‐15ボクシング全国大会で5連覇を達成し、現在、将来が最も期待されているボクシング選手松本圭佑くんだ。
 


U‐15ボクシング全国大会で5連覇を達成した15歳のボクサー松本圭佑くん


「クレバーですね。センスもあるし、理解力も高い。この年になると少し反抗的になるものですが、それもありません。いい意味で期待を裏切り続けてくれますね」

圭佑くんのトレーナーであり、お父さんでもある松本弘司(こうじ)さんが、彼の特徴について説明してくれた。

「15歳だと、練習しないで勝つのがかっこいい、反発するのがかっこいいと思ってしまうような年頃です。しかし、かっこをつけて練習をすると、本気を出せなくなります。本気を出せないと、打ち込み方も甘くなる。それは一流を目指す上で、障害になります。本当にかっこいいことは、全力で立ち向かって挑戦していくことです。圭佑は、それが分かっています」
 


圭佑くんのトレーナーを務めるお父さんの松本弘司さん


実は、圭佑くんのお父さんである弘司さんも元ボクサーで、ボクシング界でその名を広く知られている人物である。「松本好二(まつもと・こうじ)」のリングネームで日本フェザー級の王座に登りつめ、東洋太平洋フェザー級王者も奪取。WBA世界フェザー級タイトルマッチのリングにも立ち、その拳で世界のボクシングシーンを沸かせてきた。現役時代の戦績は33戦26勝(12KO)5敗。現在はトレーナーとして活躍し、WBC世界フライ級の元チャンピオンである八重樫東(やえがし・あきら)を育て上げるなどしている。

弘司さんには、世界の舞台で戦ったからこそ分かる知見がある。一方で圭佑くんは、真摯な姿勢でそれを吸収していく。全てはもっと強くなるため。そこに雑念の入り込む隙間はない。
 


練習前のストレッチ中。真剣な眼差しでリングを見つめる圭佑くん


U‐15ボクシング全国大会で5連覇を達成し、圧倒的な実力を誇る圭佑くんであるが、ボクシングを始めたきっかけは意外なことであった。

「ボクシングを始めたのは、小学校3年生の夏休みからです。当時、僕は少しぽっちゃりしていました。だから、ダイエットをしようと思って始めてみたんです」
 


大橋ボクシングジムの入り口に掲げられているキャッチコピー


それまでスポーツ経験はなく、ボクシングにも興味はなかったそうだ。弘司さんも無理にボクシングをやらせようとはしなかった。ただ小学校3年生の夏休み期間だけやる。それもダイエットのために。始めはそのつもりであった。しかし圭佑くんの心境に変化が訪れる。

「だんだんと上手くなっていくのがすごく面白くて、夏休みが終わっても続けることにしました」

しかし「すごく面白い」と感じた夏休み期間中の練習であるが、月曜から土曜まで毎日練習を行い、オフは日曜だけというスケジュールだった。これには、規則正しい生活のリズムをコツコツと身につけさせたいという、弘司さんの想いも込められている。決して楽な練習ではなかったはずだ。しかし、圭佑くんはボクシングに目覚めることになる。
 


シャドーの練習中。対戦相手が実際にいるかのような雰囲気が伝わる


ちなみに現在も、このスケジュールは崩れることはなく、試合の翌日でも練習をしている。サボりたいと思ったり、練習が嫌になったりするときはないのだろうか。

「練習をするのが当たり前で、普通だと感じています」

圭佑くんにとって練習は、特別なことではなく、日常の中の一部であるのだ。
 


サンドバックの練習風景。カメラでは捉えきれないパンチスピード
 

サンドバックにパンチを打ち込み続ける圭佑くん


「調子が悪いから練習をしないという姿勢だと、コンディションの悪いときに勝てない選手になってしまう」と、弘司さんはそう言うと、示唆に富んだ次の話を聞かせてくれた。

「ボクシングと人生は似ているところがあります。ボクシングの試合は、いわば人生が凝縮されている感じです。人生に良い時があれば、悪い時もあるように、ボクシングでも調子良くいくシーンと、相手と競るような苦しい局面を迎えるときもあります。しかし、真価が発揮されるのは、苦しい場面です。そこを乗り越えていかないと、金メダルもチャンピオンも見えてこないと思います」
 


一回り小さいサンドバックでも練習を行う


当たり前のことを、どれだけできるかが重要なのだ。しかし頭で分かっていても、実践するのは難しいことである。ただ圭佑くんは、それを実践することで強くなっていることに間違いはない。いつもの当たり前の練習の先に試合があり、一つ一つの試合の先にただ優勝があるだけなのだ。

ちなみ圭佑くんは、5連覇のかかった大会前日も、いつもと変わらずぐっすりと就寝していたらしい。弘司さんいわく「その日、ちょっと寝付けなかったので圭佑の様子を見に行ったら、熟睡していましたね(笑)」とのことだ。

確かに、5連覇を意識した生活をしていたら、大会前に消耗してしまい、ベストコンディションで試合に臨むこともできなくなってしまうだろう。試合までのコンディション調整は、弘司さんのやり方を取り入れて自分なりの方法を編み出したそうだが、圭佑くんはメンタルの強さも併せ持っているようだ。
 


体勢を捉えながら、動きを捉え、次の一撃のタイミングをはかる


それでは、週一回のオフの日は、どう過ごしているのだろうか。そう尋ねると「メダルゲームが好きなので、オフの日はゲームセンターに行ったりしますね」と圭佑くん。ボクシングを語る真剣な表情から15歳らしい一面を覗かせてくれた。

張り詰めた生活ばかりではなく、ちゃんとバランスをとれるように工夫しているのだ。オフの日は弘司さんが遊びに連れて行って、一日好きなことをさせることもあるという。練習も遊びも全力で行う。それがボクシングに全力で取り組む姿勢にも繋がっている。



「圭佑」に込められた想いを胸に世界へ



「世界チャンピオンだな」。数多くの世界チャンピオンを輩出してきた東京都豊島区にある「ヨネクラボクシングジム」。その会長の「米倉健治(よねくら・けんじ)」は、弘司さんにこう言った。

そこには、「圭佑」という名前にまつわる、こんなエピソードが関連している。発端は、弘司さんの現役時代だった26年前までさかのぼる。
 


ジムのリングには多くの汗と夢が詰まっている


当時、弘司さんは「ヨネクラボクシングジム」に所属していた。会長である米倉健治は、明治大学に在学中、全日本アマチュアボクシングの大会でフライ級のチャンピオンとなり、1956(昭和31)年、メルボルンオリンピックの日本代表に選ばれる。しかし惜しくもメダルには手が届かなかった。ただ、その後プロに転向すると圧倒的な強さを見せ、破竹の勢いで日本フライ級の王者の座を獲得する。そのとき「米倉健治」は「米倉健志」になっていたという。

また、弘司さんの同期にWBA世界スーパーフライ級王者となり、5度の防衛に成功した 「鬼塚勝也(おにづか・かつや)」がいる。彼の本名は「鬼塚隆(おにづか・たかし)」であるが、リングネームを「鬼塚勝也」にし、デビューを飾ると世界チャンピオンになった。

「当時、僕のリングネームの候補にあったのが『圭佑』です。米倉さんが字画から考えてくれました。だけど名前を変えることに抵抗がありましたね。正直、そこまでしなくてもと思ってもいました」
 


多くの未来のチャンピオンの拳が打ち込まれるサンドバック
 

多くの練習生に打ち込まれていることが分かるパンチングボール


嘘か誠か。チャンピオンになれる字画があるという。この話が、ただのまやかしだと捨てされないのは、現に改名することでチャンピオンに上り詰めている男がいるということだ。

「僕は結局ぶれて、漢字だけは変えて本名の『弘司』から、リングネームを『好二』にしました。だけど、世界チャンピオンになりたかったら、全部変えればいい。それが全てではないですが、良いとわかっていることはしたほうがいいんです」

弘司さんは、ずっとそれが心に引っかかっていた。そして子どもが生まれ、男の子と分かった時、米倉会長から現役時代に授かった「圭佑」と名づける。弘司さんは、ボクシング人生でツキに見放された時期があったそうだ。そのため息子には、字画からくるいいバイオリズムの人生を歩んでほしいという想いもあった。
 


親子での練習風景。リング上でのミット打ちでは、どちらも真剣だ


それを米倉会長に報告したとき「じゃあ、世界チャンピオンだな」と冒頭の言葉を言ったという。ただ、まだその時点では、息子がボクシングをするとは思ってもいなかったが。しかし今「圭佑」と名付けられた少年は、次のように夢を語る。

「2020年の東京オリンピック出場を狙っていきたいです。そのため、まずは今年の4月から高校生になるので、インターハイでの優勝を考えています。将来的にはプロに転向し、そこでも活躍をしていきたいですね」

2020年、圭佑くんは21歳になる。現在、172cmで50kgの圭佑くんは、その時どの階級で試合に臨むかは、まだ分からない。しかし絶好のタイミングで、東京オリンピックを迎えることになるのは確かである。
 


パンチングボールの練習ではショートパンチを打ち込む


弘司さんが「狙える位置にいてもらえたら、最高ですね」と言った後、話を続けた。

「ちょうどソウルオリンピック(1988〈昭和63〉年)のころ、世界に初挑戦しましたが、まだ自分がチャンピオンになれるとは思ってなかったですね。それに目標を口に出して、もし実現できなかったら、かっこ悪いという思いもありました。だから、圭佑にはまだ早いという想いもありながら、夢を口に出して、そこに向けて人生設計をしていたほうがいいと考えています」
 


黙々と3分間、縄跳びを飛び続ける。足元には汗が滴り落ちている


同じジムで活躍する先輩たちの背中を目標にして、ここまでたどり着いた圭佑くん。そんな圭佑くんには、いま乗り越えなければいけない壁がある。それは高校受験だ。当初は、弘司さんの出身校でもあり、これまで数多くのプロボクサーを輩出してきた横浜高校への進学を考えていた。しかし、同校のボクシング部が廃部になるらしいのだ。インターハイを目指すためにはボクシング部がある学校に通う必要がある。

そこで、これからのトレーニング環境などを考慮し、受験をすることを決意。ただ特待生での入学を打診してきた学校もいくつかあった。推薦で高校へ入学することも可能だ。しかし敢えて、受験することに意味はあると弘司さんは言う。

「メンタルトレーニングになると思います。生きていく中で、これからまだまだ試練もでてくるでしょう。圭佑にとってはキツイ状況に違いないですが、これを乗り越えることで、また強くなれると思います」
 


練習後は栄養士の指導の通り、アミノ酸などを補給する


本当なら、ボクシングに集中できる環境を整えてあげたいのが本心であるようだ。しかし、決して楽ではない道を行くからこそ、強くなれるのもまた事実である。それに、圭佑くんは実は学校の成績も良いらしいのだ。

弘司さんの経験が、圭佑くんに伝承される。それが進化を見せて、世界で花開く日が来るに違いない。圭佑くん、まずは受験頑張ってください!