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「さば神社」がやたら横浜にあるのはなぜなのか? 知られざる理由を徹底調査! 前編

ココがキニナル!

いずみ中央周辺にはサバ神社が多数あります。左馬神社や佐婆神社、鯖神社だったり、何か由来があると思うのですが調べてもらえませんか。(mocoさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

源義朝(みなもとのよしとも)・源満仲(みなもとのみつなか)の官職だった左馬頭(さまのかみ)から名付けられた神社12社中6社を回り後編へ続く

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ライター:細野 誠治

さば神社の謎を追え!



皆さま、神社はお好きでしょうか? 地元の氏神さま、知ってますか? お詣りはお正月の初詣だけだったりしませんか?
細野は自営業者ということもあり、マメに参拝しております(頼むから売れてくれ!)。

今回のキニナルは神社が舞台。それも複数。
神奈川県を縦断するかたちで流れる境川の流域(横浜市泉区と瀬谷区、藤沢市、大和市)に“さば神社”という社が複数、存在しています。
“さば”に当てられる漢字はさまざまで左馬や佐波、佐婆に鯖だったりします(ややこしい)。
 


境川の源流
に向かう途中、1社に立ち寄りました


漢字は違うものの読み方はぜんぶ“さば”。しかも一地域に集中しているなんて。一体どうしてこんなことに? 理由は?

調査を始めよう。まずは基礎知識を入れるべく、神奈川県内の神社を統括する「神奈川県神社庁」へ。
 


JR根岸線「磯子」駅下車、磯子の高台にある
 

こちらが神奈川県神社庁
 

応対いただいた神奈川県神社庁・主事、土岐淳(とき・じゅん)氏(48歳)


―神奈川県内に「さば神社」または「さば」という名を冠する神社は、いくつあるのでしょう?
「私ども神社庁に登録されているものは全部で11社、ございます」

神奈川県内の登録神社数は1122社。しかしこれは宗教法人化された神社のみの数字で、法人化されていない(氏子が少人数で祀っている小さな社など)ものも含めると、実際の数字はもう少し多いそうだ。
 


神奈川県神社庁ホームページでは県内の登録神社がすべて検索できる


神社庁に登録されている社は全部で11。未登録のものがあるとすれば11社プラスαということか。(さらに調査をせねば・・・)
 


登録されている場所だけでも「さば神社」はこんなに


では、もうひとつ質問を。
 なぜ同じ地域に、同じ名前の神社が集中しているのでしょうか?
「いくつかの説があるのですが正直なところ、明確な理由はわかりません。言えるのは、その地域の繋がりが非常に強かったのだろう、ということです」

遥か昔の出来事。埋もれたのか失われたのか。行って調べてみよう。
その場に身を置いて初めて分かることもあるんじゃない? それらをつなぎ合わせて披露してみよう。

すべての「さば神社」を訪ねてみるという筆者に、土岐氏が手に入る限りの資料コピーを渡してくれた。
 


いただいた資料(ほんの一部)。ありがたい


「頑張ってください。私も記事を楽しみにしています」と土岐氏。
 ありがとうございますっ!(何としても期待に応えねば・・・)



鎮守になった荒武者



神社庁を辞してから数日。いただいた資料の読み込み、図書館通いとインターネットによる情報収集を行う。この時点で新たに判明した点は3つ。

所在は横浜市瀬谷区に1、横浜市泉区5、大和市2、藤沢市3の11社。それに法人化されていない社が藤沢市に1社ある。これで数は12社になった。これらすべてが境川流域に建てられている。
 


12社目のさば神社。「左馬大明神」藤沢市西俣野837

(江戸時代まで東俣野、現在の横浜市戸塚区俣野と東俣野を合わせた地域にもう1社が存在していたそうだ)

そして「さば神社」の“さば”とは、古い官職で左馬頭(さまのかみ)を指す。左馬頭とは馬や馬具、牧など馬匹(ばひつ)に関するすべてを司る左馬寮(さまりょう)の長官のことを言う。

祀られているのは平安末期の武将で、左馬頭だった源義朝(みなもとのよしとも)、あるいは源満仲(みなもとのみつなか)。
 


源義朝。1123(保安4)年~1160(平治2)年


ちょっと歴史のお勉強を。まず源義朝は、鎌倉幕府を創始した源頼朝(みなもとのよりとも)の父にあたる人物。

南関東の豪族を束ねる存在だった義朝は1156(保元元年)に起こった「保元の乱」によって功績を立てた。ここで敵方に回った父、為儀(ためよし)ら一族を殺害する。親殺しだ。これらが認められ左馬頭に取り立てられる。
 


義朝、滅亡の戦となる「平治の乱」


しかし1160(平治元年)、平清盛の勢力拡大に不満を持った義朝は藤原信頼(のぶより)とともに挙兵をする(平治の乱)。しかし敗れ、関東に逃げる途中の尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町)で部下の裏切りによって命を落とした。
 


『平治物語絵巻』より。敗走する義朝一行


一方の源満仲は平安時代中期の武将。
 


源満仲。912(延喜12)?~997(長徳3)?


義朝と同じ官職、左馬頭だった源満仲は多田源氏の祖である人物。
(多田源氏とは平安時代、都において軍事を司っていた一族のこと。満仲は多田盆地<現在の兵庫県川西市多田>において武士団を形成した)

謎の多い「さば神社」において、祭神として源満仲が祀られているのは境川支流の和泉川流域の3社のみ。(中の宮左馬神社・鯖大明神・佐婆神社)

なぜか? 上記の3社が源満仲を祀った由緒書きなどは存在していない。理由は分からないのだ。



泉区の名士、宮司の宮本氏に会う



机上で分からないなら現場に行ってみよう。
泉区の「さば神社」5社の管理をされている宮本忠直(ただなお)氏に話を聞いてみた。
 


宮本忠直氏、84歳。泉区・御霊神社の宮司でもある


源満仲について疑問をぶつけてみたが、明確な答えはなかった。ただ、推論がひとつ。この地域(和泉エリア)には泉小次郎親衡(泉親衡=いずみちかひら)、巴御前(ともえごぜん)にまつわる伝承が多いのだという。

信濃国(現在の長野県)出身の泉親衡(生没年不明)は1213(健歴3)年、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の遺児、千寿丸(せんじゅまる)を鎌倉殿に擁立し執権北条氏を倒すため(泉親衡の乱)に戦略的にも決して有利とは言えない和泉に出城を築いた人物。また源満仲の末裔にあたる。

そして巴御前は、同じく信濃国出身の木曽義仲(きそよしなか)の愛妾だった女性の武将。
 


巴御前の愛した木曽義仲は、源頼朝の従兄弟にあたる
 

巴御前 生没年不明


打倒・鎌倉幕府と奮戦した巴御前だったが敗れ、信濃に戻る途中に和泉川流域を縦貫する鎌倉道を通ったという。
 


現在の鎌倉道。ここを巴御前が駆け抜けたとされる


鎌倉道沿いには、巴御前が立ち寄ったとされる横根稲荷神社がある。
 


横浜市営地下鉄ブルーライン「立場」駅から徒歩30分ほどにある
 

境内では、巴御前が化粧直しの際に使ったとされる古井戸が残っている


これら背景もあって、和泉地域の人々は信濃源氏に対する強い思い入れがあるそうだ。このことから、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのだろうと言われている。

違う氏神にも関わらず、同一の名を冠する神社。それも12社も。
「地域のつながりが強かったのでしょうか?」神社庁の土岐氏の言葉をぶつけてみると、宮本氏からこんな事実が。
「昔この辺りはもともと中田、和泉、上飯田、下飯田と4つの集落が一つにまとまったのです(中和田村となった)」

「さば神社」の点在するエリアに重なる。これら集落がまとまり、同一の文化圏(信仰)を形成していったのだろうか?

さまざまに宮本氏と話を突き合せるが、謎は謎のまま。それでも、いくつもの説や考え方を吸収できたと思う。
 


氏が上梓・寄稿した書籍。こちらも参考にさせていただく


宮本氏にお礼をして外へ。そろそろフィールドワークに出かけよう。
12社をまわって来歴や、現在唱えられている説を挟みながら紹介していこう。