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横浜が生んだ喜劇俳優ムロツヨシさんを徹底解剖!

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横浜が生んだ喜劇俳優ムロツヨシさんを徹底解剖!

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ライター:永田 ミナミ

2011(平成23)年放送のTVドラマ『勇者ヨシヒコと魔王の城』(テレビ東京)、2013(平成25)年から出演中のコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』(NHK)で注目を集めて以来、多数の映画・ドラマ・舞台に出演。最近ではバラエティー番組のMCも務めつつ、9月には自身の舞台「muro式.9」の幕が上がるムロツヨシさんから目が離せない。

変幻自在なキャラクターと飄々とした演技の間とテンポは一度はまったらもう抜け出せない、というか気がついたらここにもそこにも出ているムロツヨシさんと、横浜とムロツヨシさんの関係性を新解釈するロングインタビュー。
 

ムロツヨシ
誕生日: 1976年1月23日
血液型: A型
職 業: 喜劇俳優
所 属: ASH&Dコーポレーション




ムロツヨシと横浜



─こんにちは。横浜からやってきた「はまれぽ」です。ムロツヨシさんは横浜のどこ出身なんですか?

とうとう地元横浜から来ましたか、嬉しいですね。僕は菊名です。菊名記念病院で生まれました。そのあと菊名に4歳くらいまで住んでいて、そこから神奈川区の三枚町に移ってそこで5年。次に小学校4年くらいで隣町の片倉に引っ越して、そのあとが大倉山です。
 


「大倉山は高3くらいからなので、いちばん長かったのは片倉ですね」


─横浜のなかでも、いろいろな街で暮らしたんですね。

はい、横浜市内を転々と。いろいろ複雑に入り組んだ面白い家庭事情があっての「転々」ですね。いろいろ家族が変わっていくという「変化型」の家族だったので(笑)。一般的な家族は進化型なんですが、うちは変化型を採用してまして。

─家族構成にいろいろ柔軟な変化があったそうですね。

そうなんです。両親が4歳のときに離婚しまして、父親と暮らしていたんですけど、ある日父親が出ていきまして。それからは祖父母と暮らしていたんですが、ある日そこに父親がとある女性と子どもを2人連れて帰ってきて隣に暮らし始めるんです。

それで突然2人の兄になったなと思ったら3年後に3人は父のもとを離れて行きました(笑)。そういう柔軟な変化に対応して、それぞれの変化のタイミングでの移動ということですね。

─いちばん長く過ごした片倉での思い出の場所っていうとどこですか?

セントラルスイムクラブ横浜の手前に住んでいたので、その景色が印象に残っていますね。プールの匂いも。そのセントラルスイムクラブで働いている加藤大輔とは同級生でずっと一緒に遊んでいて、今でも僕の大親友なんです。あ、よかったらセントラルスイムクラブの写真載せてもらってもいいですか? 横浜の地域情報サイトに載ったら喜ぶと思うので。コネだということも書いておいてください(笑)
 


というわけでこちらがセントラルスイムクラブ横浜である。加藤さんものちほど登場


あのころはファストフード店ができただけでもう大フィーバーだったんですよ。「わが街に初のファストフード店がやってきたぞ」って。コンビニができたときも大騒ぎでした。たぶんそのファミマが最初だと思うんですけど、加藤大輔に聞いてくれればだいたいのことはわかります。
 


というわけでこちらが、ムロツヨシさんたちが歓喜したファミリーマートである


─ムロツヨシさんは横浜市歌、歌えます?

あ・・・歌えないなあ。でも小学校の校歌は今でも歌えます。「野のみどり 空のあおさが~」。あと中学が「港にこめたる 朝もや晴れて~」で、高校が「七つの海をつなぐ船の~」。僕らのときはたぶん横浜市歌をあまり歌わなかったと思うんですよね。

三枚町から片倉に引っ越しても学校は変わらなかったので、神大寺小に1年生から6年生まで通ってたんですけど、その6年間は神大寺小でサツマイモを掘るのがやたらと流行っていたんですよ。それで、横浜市歌のかわりというか、小学校オリジナルの芋の歌をよく歌ってました。
 


僕らのときだけ流行ったのかもしれないけど、今でもあるのかな


ちょっとフレーズか音程が出てくれば思い出せるんだけど・・・思い出した。「イモはイモでもサツマイモ 天ぷら焼き芋何でもできる いもでん音頭で見つけよう~」あ、曲名は『いもでん音頭』です。今でも歌ってるのかな。

(というわけで神大寺小に問い合わせてみたところ、音楽担当の先生にも確認していただいた結果、残念ながら現在『いもでん音頭』は歌われていないそうです)

─子どものころ、よく遊んだ場所はどこですか?

僕らは、子どものときにちょうど今の横浜への変化を見ている世代なので、みなとみらいがまだ空地だったときから自転車でよく遊びに行っていました。

中学校1年くらいの時は、まだ観光地になる前のできたばかりの臨港パークに遊びに行ってたんですよ。残念ながら僕の手柄ではないんですけど、友達が「見つけた!」って言うので自転車に乗って臨港パークに行って、開通間近のベイブリッジの写真を撮ったり、ふざけあったりしていました。それからどんどんビルが建ちはじめてっていう時代ですね。
 


あのころはどこへでも自転車で行ってました。それが楽しかったんですよね


─高校時代はどうでしたか?

高校3年間はもう遊びに遊びました。部活はハンドボール部でしたけど、僕が通っていた県立鶴見高校は強豪校ではなかったので、ハンドボールもやりつつ友達とサッカーばっかりやっていましたね。ちょうど高校2年のときが「Jリーグ元年(1993<平成5>年)」なんですよ。
 


「あとはうちが遊び場だったので部活帰りにうちに集まってゲームやったりとか」


高校3年のときは、部活は引退したけど校庭でサッカーをやるという、もはや小学生とやってることが変わらない高校生でした(笑)。卒業式が終わったあとも、浪人するので本当は予備校に行かなきゃいけなかったのに3月31日までサッカーをやっていました。そのときのことを思い出すと、予備校代を払ってくれていた家族には本当に申し訳ないですね。

─高校生のときに遊んでいたのは横浜のどのあたりですか?

横浜駅西口のあのメインストリート(現在のパルナード通り)です。高校生のころは河合塾に通っていました。今は現役生用の建物が近くに新しくできてますけど、僕らは東急ハンズのほうまで歩いていって。あ、今はハンズもモアーズのなかに移転しているんですよね。

昔は駅から(アリック)日進(現在のドン・キホーテ)があって、ビブレがあって、僕らは「日進の道」って呼んでいました。鶴見高校から横浜駅に移動して、3~4人で河合塾に向かって旧東急ハンズのほうに歩いていくんですけど、誰かが「カラオケ行こう」とか、どこかに行こうって言い出すのを待っているんですよ。

予備校には行きたくないけど、誰かのせいにしたいから(笑)。で、誰かが言い出したらそこに行くっていう。「おまえが言うんだったらしょうがねえなあ」って行って、予備校に行かなきゃいけないのに行かないで、横浜駅をうろちょろしていました。

─高校時代は、友達のなかではみんなを引っ張るほうだったんですか?

いや、僕は全然そういう感じじゃなかったです。リーダーはほかにいて、僕は「遊ぶんだったら遊ぶよ」っていう感じでした。ただ、僕の場合はうちの祖母が「寂しい思いをするくらいなら友達呼びなさい」っていう人だったので、うちがたまり場みたいになっていて「じゃあ最後はツヨシんちで」みたいな流れはありました。