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故郷に帰ることなく山手の横浜外国人墓地にて永眠、世界遺産の富岡製糸場のフランス人設計者「バスチャン」の生涯とは?

ココがキニナル!

世界遺産に登録された富岡製糸場を設計したフランス人が、山手の外人墓地に眠っているらしい。生まれ故郷のフランスに帰ることなく横浜の外人墓地で眠るその人の足跡を是非調査して!(横濱マリーさん)

はまれぽ調査結果!

富岡製糸場を設計したフランス人、エドモン・オーギュスト・バスチャンは若くして病死してしまい日本で埋葬されていた。その足跡はいまだ謎が多い

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ライター:ムラクシサヨコ

横浜外国人墓地へ



群馬県の富岡製糸場の設計者であるフランス人がなぜ横浜の外国人墓地に眠っているのだろうか?

設計者の名前は、エドモン・オーギュスト・バスチャン。

その謎を解くため、まずは、横浜外国人墓地を訪ねてみた。
 


横浜外国人墓地は、3月末から12月末までの土日祝日のみ一般公開


特別に許可をいただいて入園した。
 


横浜外国人墓地の案内図
 

拡大。バスチャンの名前を発見!


バスチャンの墓前へ。大きく、立派な墓碑が立っていた。
 


フランス人墓地の区画
 

バスチャンの墓


墓碑には・・・

A Edmond Bastien, Ne le 27 Juin 1839 a CHERBOURG Manche
Decede le 9 septembre 1888 a YOKOHAMA R.I.P

(エドモン バスチャン 1839年6月27日マンシュ県シェルブール生まれ 1888年9月9日横浜にて死去 安らかに眠れ)と書かれている。
 


墓碑のアップ


さらに、下の方には読みにくいがLa Municipalite Francaise de Shanghai(municipalite=自治体、Francaise=フランス人の、Shanghai=上海)と書かれている。

なぜ上海!? 


1849(嘉永2)年~1946(昭和21)年、上海にはフランス人租界があったので何か関連があるかもしれない。
 


墓碑の下の部分のアップ


1839(天保10)年にフランスの港町・シェルブールに生まれ、1888(明治21)年、49歳で横浜にて死去したバスチャン。

彼はどのような生涯を送ったのだろうか。



バスチャンの生涯を追う



調べてみると、バスチャンは、富岡製糸場の設計者としてテレビで紹介されるなど、重要人物として認識されているようだが、意外にも資料が少ない。調べても出てくるのは「バスチャンの生涯は不明点が多い」という事実だった・・・。

調べていくうちに、バスチャンは横須賀製鉄所(後の横須賀造船所・現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている)の設計者だったことが分かった。

篠原宏著『日本海軍お雇い外人 幕末から日露戦争まで』(中公新書)の中に、バスチャンの記載を見つけた。
 


オランダ・フランス・イギリスと幕府・明治政府との関係を記している


「シェルブールの造船所で船工として働いていたが、一八六六年横須賀製鉄所の船工兼製図工として来日」、「一八七〇年明治政府はフランスからポール・ブリュナ(1840年生まれ。フランス・ドローム県出身の生糸技術者)を招いて上州富岡に製糸工場を建設することになったが、その設計を担当したのがバスティアンである」「(富岡製糸場の)竣工後は横須賀に帰り、明治八年ごろからは工部省営繕局の雇いになっている。一八八八(明治二十一)年九月九日横浜で死亡」

バスチャンは幕末期のいわゆる「お雇い外国人」の一人で、造船兼製図職として1866(慶応2)年12月に雇入れ、月給は75ドルとある。(同書より)。

横須賀製鉄所で働いていたところ、首長のヴェルニーが富岡製糸場の首長のブリュナの求めに応じてバスチャンを推薦して富岡製糸場の設計者となったようである。
 


1923(大正12)年前後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近


富岡製糸場での活躍やバスチャンの個人的な事柄については、なかなか資料が出てこない。墓碑には上海と書かれていたが、あれは何なのだろうか。

バスチャンについては、富岡製糸場総合研究センターで調査・研究が進められていると聞き、電話してみた。

すると、センターの所長の今井幹夫さんに、いろいろと教えていただくことができた!

今井さんによると、バスチャンは富岡製糸場が1872(明治5)年に出来上がると同時に富岡を去り、横須賀に戻った。その後上海に渡ったのだという。富岡製糸場建設の総指揮者であるポール・ブリュナは1875(明治8)年に帰国。その後、1878(明治11)年に上海で製糸場を建設している。おそらくバスチャンは上海でブリュナと再会しているだろうとのこと。
 


明治期の富岡製糸場(吉川弘文館『明治の日本』より)


その後バスチャンは日本に戻り(なぜ祖国フランスではなく日本に戻ったのかは不明)、ほどなくしてに病死してしまう。今井さんによると、より詳しいことについては「富岡製糸場総合研究センター報告書に載っていて、国会図書館で閲覧できる」とのことだった。
 


横浜外国人墓地には「詳細は不明」と書いてある


いざ、国会図書館! と思ったが、貸し出しをしていない。できれば報告書はじっくり読みたい。
しばらく考え込む。せっかくの機会なので、バスチャンの設計した建物を直で見てみたい。
富岡製糸場を直接訪ねれば、報告書も入手できる・・・。ということで、行き先は国会図書館から現地にチェンジ!