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反町駅周辺は昔「遊郭」だったって本当!?

ココがキニナル!

東急東横線反町駅前には戦前まで遊郭があったそう。当時は「大門」という大きな門があって、門の先が遊郭になっていたのだとか。この遊郭について知りたい。(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

東横線反町駅から第二京浜道路へ出る一画に「反町遊郭」があった。1900(明治33)年に作られたが、その建物は横浜大空襲で焼失した。

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ライター:橘 アリー

謎に包まれた遊郭!?

横浜の遊郭というと、以前、はまれぽの記事にもなっている「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」「高島町遊郭」や記事中に登場する「吉原遊郭」「真金町遊郭」などがあったと知られているが、今回のキニナル投稿によると、現在の反町駅の近くにも遊郭があったという。
 


港崎遊郭にあったという石灯籠。現在は横浜公園内にある


反町にあった遊郭とは、どのようなものだったのだろうか。

まずは神奈川区役所の区民活動センターで、神奈川区の歴史に詳しい「神奈川区いまむかしのガイドの会」に問い合わせてもらったが、詳しくわかる方はおられないとのこと。
 


神奈川区役所でお話を伺う


そして、神奈川歴史愛好会、神奈川地区センター、横浜市史資料室、横浜開港資料館などにも問い合わせてみたが、やはり反町にあった遊郭については何もわからないとのことだった。

これは、どういうことなのか・・・反町には遊郭は無かったのだろうか?
横浜の歴史に詳しい各所に聞いてもわからなかったので不安だが、続いて、資料で調べてみることに。

すると『神奈川区誌』『横浜市史稿・風俗編』『わが町の昔と今 3神奈川区編』『第二京浜国道と鶴見めがね橋物語』『横浜市文化財調査報告書』などの資料の中に“反町にあった遊郭”について書かれていた。
 


資料の一部。『神奈川区誌』(左)と『わが町の昔と今 3神奈川区編』


では、資料をもとに反町遊郭について辿っていくことに。

まずは、反町に遊郭が出来た経緯と年代について。
 
 
 

遊郭は明治時代に移転してきた!?


 
反町に遊郭が出来たのは、1900(明治33)年であるようだ。
県令(県知事が発した命令)により、七軒町と宮洲町(現在の栄町)から移転してきたそうである。
 


地図の赤丸の辺りが七軒町と宮洲町(『神奈川区誌』より)


遊郭の呼び名は『横浜市史稿 風俗編』には「反町廊(たんまちろう)」となっていて『神奈川区史』では特定した呼び名な無く、その他の資料では「反町遊郭」となっている。今後は、一番多い「反町遊郭」という名で書くことに。

「反町遊郭」は、元は、江戸時代の東海道神奈川宿の旅籠に、飯売女(めしうりおんな・本来は宿泊客の食事の世話などをする女性のこと)という名目で遊女が置かれていたことに端を発している。
 


江戸時代の神奈川宿方面の絵(『横浜市文化財調査報告書』より)


東海道が設置された初期のころは旅籠に遊女が置かれていたが、1658(万治元)年になると禁止された。しかし、宿場の財政を豊かにする手段として飯売女という名目で、女性が客席に出ることが習俗となっていったようだ。

このような旅籠を飯売旅籠(めしうりはたご)と言うようである。
 


旅籠の続く神奈川宿の絵(『横浜市文化財調査報告書』より)


明治時代になると、神奈川宿の飯売旅籠は下火になり、横浜の開港場(現在の関内近辺)が栄えるようになった。

1872(明治5)年、娼妓解放令(しょうぎかいほうれい。隷属的奉公人の人身解放に関する布告)が出たころになると、飯売旅籠はますます衰えていく。そして1889(明治22)年に出された県令により、埋立地である七軒町と宮洲町に移されることとなる。

そうして上に書いたように、1900(明治33)年に県令によって反町に移され、反町廊・反町遊郭と呼ばれるようになったのだ。
 


神奈川宿の茶屋を描いたイラスト(『横浜市文化財調査報告書』より)


続いて「反町遊郭」の変遷について触れてゆく。

1901(明治34)年当時は、20軒ほどの店があり、1908(明治41)年には店は17軒になり遊女は163人ほど居たそう。関東大震災では幸運にも火災の難を逃れたが、その後、店の軒数が増えることは無く、1930(昭和5)年には16軒となったようだ。

その後、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦により「遊郭は贅沢の一つである」として、その建物が工業地帯の職工や勤労動員者の宿舎として使われるようになる(事実上、ここで遊郭が終焉したことになるようだが・・・)。宿舎として使われていた遊郭の建物は1945(昭和20)年の横浜大空襲で焼失したそうである。

これで「反町遊郭」の変遷はわかった。
次に「反町遊郭」があった場所について触れていく。