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120年以上の歴史あるJR横須賀駅、階段が全くない理由は?

ココがキニナル!

JR横須賀駅は改札から電車に乗るまでフラット。軍港なので物資の積み下ろしが楽なようにという説と天皇行幸の際に見下ろさないようにというの二つの説がある。どちらなの?(kick01さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

JR横須賀駅に階段がないのは軍港への物資の積み下ろしが容易なためと天皇行幸のさい見下ろさないため、両説ある

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ライター:やまだ ひさえ

海軍の街、横須賀にある階段のない駅

かつてクイズ番組の問題にもなったことがあるほど、JR横須賀駅に階段がないことは知られている。もちろん横須賀が地元である筆者も知っていた。

ただ、なぜ階段がないのか。その理由は突き詰めたことはなかった。灯台下暗し、とは私のことか。そう思いながら久しぶりにJR横須賀駅に向かった。
 


JR横須賀駅


JR横須賀駅は、横須賀市東逸見(ひがしへみ)町にある。

現在の駅舎は、1914(大正3)に建てられた2代目の駅舎の形をそのまま残し、1940(昭和15)年に改築されたものだ。

海軍の街と呼ばれている横須賀らしい錨をデザインしたJR横須賀駅の看板と、横須賀海軍カレーのマスコット「スカレー」が出迎えてくれる。
 


船の錨とカモメをデザインした看板
 

横須賀海軍カレーのマスコット、スカレー


駅前のターミナルからコンコース、そして改札口をぬけてホームへ。
本当に階段が一段もない。
 


JR横須賀駅コンコース。フラットなまま改札口に続いている
 

改札口からホームまでも階段はない



なぜ、階段のない駅が誕生したのか。
その理由を駅長さんに伺うことにした。



JR横須賀駅誕生秘話



今回、話を聞かせてくれたのは、JR横須賀駅第58代駅長・寺田義行(てらだよしゆき)さん。
 


JR横須賀駅第58代駅長寺田さん


JR横須賀駅は、1889(明治22)年6月16日、大船―横須賀間に開通した横須賀線の終着駅として開業した。
 


大船―横須賀間、約16.2㎞。当時は単線だった


開業にいたるまでの経過については、駅舎の入り口に掲げられた「横須賀風物百選」に詳しく記されている。
 


横須賀風物百選「横須賀駅」


「明治19(1886)年6月、陸海軍は、鉄道施設の必要性を記した請議書を海軍大臣西郷従道(さいごう・じゅうどう)、陸軍大臣大山巌(おおやま・いわお)の名を連ねて総理大臣伊藤博文(いとう・ひろぶみ)に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌20年に測量を開始し、21年1月に工事を起こしました(原文ママ)」とある。
 


西郷従道(フリー画像)
 

大山巌(フリー画像)


明治政府は、1886(明治19)年から始まっていた東海道線建築費から、横須賀線建設のために当時の40万円(現在の約15億2000万円)を捻出。

また、横須賀駅の駅舎建設地として海軍が海兵団の敷地を提供し、工事開始からわずか1年半というスピード開業が実現した。

軍部が鉄道建設を急ぐには理由があった。



150周年を迎える横須賀造船所こそ階段のない駅誕生の立役者



1853(嘉永6)年、アメリカ海軍・ペリー提督の来航をきっかけに欧米5ヶ国と通商条約を締結した江戸幕府は、諸外国からの圧力が高まるなかで、自ら国を守る必要性に迫られていた。
欧米の列強国の軍艦から攻撃を受けた場合、陸上にある大砲だけでは防ぎきれない。

対抗できるだけの海軍力を増強させるためには、欧米並みの軍艦と、それを造る近代的な造船所の建設が求められた。その任を受けたのが、勘定奉行などを歴任した小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)だった。
 


汐入町のヴェルニー公園内にある小栗上野介忠順像


小栗上野介忠順は、1860(安政7)年、日米修好通商条約を締結するために渡米した幕府の使節団の一人。
アメリカの海軍造船所で、軍艦だけでなく船に必要な道具や機械などが蒸気機関を原動力にした機械で作られているのを目の当たりにし、日本でも自国で軍艦を造る必要性を感じ、帰国後、幕府に強く訴えたといわれている。

小栗上野介忠順は、まずアメリカに協力を打診。しかし、アメリカは、南北戦争の真っただ中で、日本に力を貸す余力はなかった。

この動きに興味を示したのがフランスだった。

当時、フランスは国内のカイコが伝染病による壊滅状態に追い込まれており、ヨーロッパの伝染病に強い日本のカイコの輸入を模索していた。反対に当時の日本には、近代的な造船所を造るだけの技術力も資金もなかった。ここで両者の利害が一致。幕府はフランスの力を借り、造船所建設に動きだした。

責任者として来日したのが、フランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーだった。
 


ヴェルニー公園内にあるフランソワ・レオンス・ヴェルニー像


この時、ヴェルニーは、中国の造船所で軍艦を造る仕事を終え、フランスに帰国するところだった。連絡を受けたヴェルニーは帰国を止め、日本に向かった。

1865(慶応元)年、来日したヴェルニーは、すぐに候補地にあげられていた横須賀港の測量を行い、造船所建設が決定した。

横須賀港が候補地にあげられた理由はいくつかある。
(1)外国に門戸を開いた横浜港と近い。
(2)大型船が安全に運航できる水深がある。
(3)フランスの軍港の一つ、ツーロン港に似た地形で、ヴェルニーが気にいった。
などがあげられている。

その後、ヴェルニーが準備のために一時帰国している間の1865(慶応元)年11月15日に鍬入れ、起工式が行われた。当初は、「鉄を加工する場所」という意味で使われていた「製鉄所」という名前だった。

そして時代は明治に移り、1871(明治4)年に第1号ドックが完成。このとき名称が「横須賀造船所」になっている。
 


明治時代初期の横須賀造船所(提供:横須賀市役所)
 

明治時代初期の横須賀造船所のドライドック (提供:横須賀市役所)


横須賀造船所が造られたのは、現在、アメリカ海軍横須賀基地のある場所。

湾をはさんでJR横須賀駅の対岸になる。
 


港に直結していることが分かる


1877(明治10)年には、3基のドライドック、5ヶ所の船台、金属を溶かす炉、最新の加工機器を備えた一大造船所に成長。
横須賀造船所は、日本の近代化を推し進める明治政府にとって、国民に、欧米の列強国に誇れる工場だった。

これとともに横須賀は、海軍の街として発展を遂げていく。