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ついに踏破、開港前の横浜、旧海岸線を探し歩く旅! 磯子区~金沢区

ココがキニナル!

横浜港が埋め立てられる以前の、旧海岸線を探す旅をお願いします。金沢、磯子、中、西、神奈川、鶴見の各区の何か海岸線の名残の様な物を見つけて欲しいです。(タッカーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

磯子区~金沢区の旧海岸線を踏破。埋め立てによって海を諦めた人々の想いに触れ、また自然が多く残るエリアを、身を持って感じることができた

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ライター:細野 誠治

さらばヨコハマ海岸探偵局 試みの海岸線を行く



塩田と農地の広がっていた鶴見区。のどかな漁村と、港湾防衛の拠点だった神奈川区
 


「鶴見区~神奈川区編」では開拓地の跡や神奈川砲台を

 
華やかな開港の街と、失われてしまった豊かな海を抱いていた西区・中区
 


「西区~中区編」では横浜の玄関口だった波止場や、生活の側にあった海を

 
2度に渡る旧海岸線の巡礼も今回が最終回。磯子区と金沢区を歩きます。
これまでの模様は過去の記事を見ていただくとして、初めての読者のために旅の概略を・・・。

まず設定する海岸線の年代は1880(明治13)年から1886(明治19)年の間。理由は、この年代に初めて横浜エリアの正確な測量が行われたため。
 


横浜港開港(1859<安政6>年)当時の地図。これでは巡れない

 
標とする地図は、横浜の最も古い姿を表した「迅速測図」。この迅速測図を現在の地図と比較できるウェブサイト「歴史的農業環境閲覧システム」を使用する。
 


こちらのサイトを参考に約130年前の海岸線を追います

 
6年に及ぶ測量、その間に海岸線の変更も考えられる。また、迅速測図は最大誤差がおよそ100メートルと言われている。区画の変更や、建築物が行く手を遮っている場合もあるため正確な汀線(ていせん)上の踏破はできない(でも、やります)。

専門家によれば「ほぼ不可能」と言われている旧海岸線踏破。筆者は実地と検証で「おおよそ」の旧海岸線を探り、巡ります。ご了承を。

それでは行こう。ヨコハマ海岸探偵局、有終の美を飾るべく、出発。



磯子区・前編 忘れずの海と、馬留めの浜



最後の旅はJR根岸駅から東へ300メートル地点。本牧通りからスタート。
 


「日石前」の信号から磯子区に入る

 
歴史的農業環境閲覧システム(以下=システム)を確認しておこう。
 


深い入り江だ。そして旧海岸線は本牧通り、国道16号線と一致(クリックして拡大)

 
進路は西。すぐにJR根岸駅に到着する。今ある駅舎も、高架の伸びる湾岸線も当時は海だ。
 


新旧の根岸駅周辺(クリックして拡大)
 

JR根岸駅へ。少し、寄り道をしよう

 
「鶴見区~神奈川区編」で「寿さん」から寄せられたコメント「JR根岸駅前に、漁業者が埋め立て、開発のために海をあきらめた経緯を記した碑があります」の通り、ここに人の想いが残されている。
 


改札すぐの場所に記念碑が建てられている
 

裏には漁協員たちの名。隣には磯子区埋め立ての変遷が伝えられている

 
埋め立てによって海(漁場)を諦めざるを得なかった人々がいた。年代を重ねる度に、海が遠くなってゆく。記念碑が建つ場所は、昔の海だ。感慨深い。

ちょっとだけ磯子の埋め立てについて、歴史を話そう。最初に話が持ち上がったのは1870(明治3)年、横浜港開港から11年後のこと。波止場を作るという計画だ。
 


100年ほど前の根岸。面影すらない
 

こちらは海岸の様子

 
当時、周辺は美しい海岸だったが切り立った崖が迫り、交通の便が悪かったという。住民は僅かばかりの土地を耕作し、漁に出て生活をしていた。そこに埋め立ての話が舞い込んだ。
 


堀割川河口を皮切りに埋め立てが進んだ(『磯子の史話』より)

 
「横浜港に劣らないほど栄えるだろう」との期待が寄せられるが、予算不足や稚拙な技術、地形の悪さなどが重なり埋め立ては難航する。何とか波止場が作られたものの実際には使用されることが少なく、当てが外れてしまう。

この一件を振り出しに埋め立ては進むのだが(震災や戦争、いくつかの元号を挟む)、そのつど海を失うまいとする地元漁協の反対運動や裁判に発展。
・・・結果は現在の通りに言わずもがな。根岸駅の南口には広大な工業地帯が横たわっている。

根岸湾の埋め立て、根岸湾臨海工業地帯は苦難の歴史を歩んできた。
 


根岸の記念碑は埋め立てについて考えさせられる

 
進路の先、700メートルに最初の埋め立てポイントだった堀割川河口がある。向かってみよう。
 


かつての海岸線(本牧通り)には釣り具店が数軒、点在している
 

約130年前の堀割川周辺。「瀧頭村」の文字に、波止場と思しいものが見える(クリックして拡大)
 

現在の姿。八幡橋の信号周辺

 
ここで興味深い事実と出会う。八幡橋手前に古い神社がある。名前は八幡神社(はちまんじんじゃ)
 


社殿によると551(欽明天皇12)年以前から祀られていたという古刹

 
この名を取って橋の名前が「八幡橋」。さらに言うと1870(明治3)年以前までは堀割川ではなく、八幡川と呼ばれていたという。
 


理由は川幅の拡張によるもの。堀割(地面を掘って水を通すこと)から

 
少し脱線したが、もうひとつ。神社の向かいに昔「大竹屋」という一軒の茶店があったという。
 


『磯子の史話』より

 
この大竹屋、幕府によって命じられ普通の民家を改築し外国人たちの休憩所として開かれた。当時、日本(横浜)にいた外国人が居留地から遠出をした際に休憩できる場所を13箇所設けたそうで、その内の1軒が堀割川の河口縁に。
 


『横浜周辺外国人遊歩区区域』日本に滞在する外国人向けのパンフレット

 
外国人目当てに飲み物や果物を提供していた、と資料にはある。そしてある時、ひとりの外国人客が、波止場の岸壁に牡蠣(カキ)が育っているのを見つける。

さっそく店の者にカキの食べ方を教えると、それが評判を呼び、ますます繁盛したという(あまりの人気にカキが品薄となり、生簀(いけす)でカキの養殖を行ったとも)。
 


根岸に昔、カキ小屋があった

 
そしてそして、大竹屋を訪れた外国人たちは当時、馬や馬車に乗っていた。それらを停め置いていた場所は(カンのいい読者はお気づきかと)・・・現在の動物検疫所のあるところ。
 


輸出入される動物を調べる農林水産省の動物検疫所

 
なぜこの場所に動物検疫所が設置されたのか? 理由は港から一定の距離があり、なおかつ海運による利便性のため(かつてのカキ小屋の馬停めだった場所にあるのは、偶然か必然なのかは資料による記述がない)。

先へ進もう。八幡橋を越えると道は、国道16号線に。
 


旧海岸線は16号線に重なる
 

システムによる比較でもこの通り(クリックして拡大)

 
また、ここにきて初めてシステム上で空白地点が現れる(上記写真・左)。現在の地図から導くと、ちょうど磯子旧道にかかっていたことが分かる。
 


16号から一旦、離れて磯子旧道が過去の海岸線に(写真、右側の道路へ)

 
再び国道と一致を見るのは磯子旧道に進入してから400メートルほど。緩やかなカーブを描いて磯子2丁目の旧NTT東日本・神奈川支店付近に出る。
 


ここから1km強でJR磯子駅に辿り着く