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子安台にあった米軍高射砲陣地の歴史とは?

ココがキニナル!

神奈川区子安台にかつて米軍キャンプがあったことを最近始めて知りました。どのような経緯ででき、どれくらいの規模だったんでしょうか。また、その跡地はどうなっているんでしょうか?(浜のすーさん)

はまれぽ調査結果!

子安台には1950年から1955年まで米軍の高射砲陣地があった。1975年以降、2万6382平方メートルの跡地は子安台公園として整備されている

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ライター:ムラクシサヨコ

子安台公園は木々が茂り、昼間はランニングをする近隣の学校の子どもたちでにぎわう広さ2万6382平方メートル、横浜スタジアムとほぼ同じ面積の公園。周辺は閑静な住宅地で、およそ米軍関連の土地とは無関係に見える。公園を歩いても、何か、それらしきものは見つけられなかった。
 


のどかな午後の子安台公園

 
資料を探し調べてみると、ここは確かにかつて米軍が使用していた土地だという。

詳しいことを知るため、横浜市史資料室の羽田博昭(はだ・ひろあき)さんに話を伺うことに。羽田さんは『横浜市史通信』という刊行物に、子安台について記述している。
 


横浜市中央図書館内にある横浜市史資料室へ

 
―子安台に米軍キャンプがあったと質問があったのですが、これは本当でしょうか。
「かつて米軍の高射砲陣地があったので、そのことを指しているのでしょう。“米軍キャンプ”ではありません」

(高射砲陣地の「高射砲」は、飛行する敵機を攻撃するもの。高射砲陣地とは、高射砲を備えた陣地のこと。)

―子安台公園が米軍に使われるまでの経緯を教えてください。
「1923(大正12)年、関東大震災が発生し、横浜も甚大な被害を受けました。この震災後の復興事業として、公園が整備されることになります。東京や横浜で、地震の際の避難場所となり、また、火災の延焼防止のために、たくさんの公園が作られました」
 


関東大震災後の横浜市街の様子(フリー画像より)

 
「ところが、当時は日中戦争(1937<昭和12>年~1945<昭和20>年)が始まろうとしていた時期でした。子安台公園は、地震の防災というより、軍事的な意味合いが濃くなり、防空公園として使われることを考えられていたようです」

(防空公園とは、空襲被害にあった際、避難場所、延焼防止になるように設けられた公園)。

「横浜市は1940(昭和15)年から1943(昭和18)年までの3年間に市内15ヶ所の防空公園の設置を計画していました。ところが、当時は日中戦争がすでに始まっており、公園計画のはずが、軍用地となることも多くありました。子安台もそのひとつです。1944(昭和19)年に日本軍により高射砲陣地が築かれました」
 


同様に
高射砲陣地のあった岸根公園

 
「見晴らしのよい高台は高射砲陣地に適した場所で、子安台のほかにも、現在の野毛山公園、岸根公園のある場所も高射砲陣地として使用されました。終戦後、横浜市内の多くの場所が米軍に接収されましたが、子安台公園は接収されず、高射砲陣地は解体されました」

「ところが、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発すると、子安台は再び高射砲陣地として使用するため、米軍に接収されました。この高射砲陣地については大変資料が少なく、軍施設だったので写真もほとんど残っていません」
 


朝鮮戦争時の米軍機B29

 
―その跡地が子安台公園になったということでしょうか。
「朝鮮戦争が終わり、1955(昭和30)年12月に米軍の接収が解除されましたが、高射砲陣地は自衛隊に引き継がれました。1966(昭和41)年になって高射砲陣地が廃止され、その後公園として整備されました」

―ありがとうございました。

羽田さんは以前独自に市内の高射砲陣地について調査をされており、貴重なお話をうかがった。自力では見つけることができないであろう資料も見せてもらった。資料の複写をとり、横浜市史資料室を後にした。