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エフヨコDJ光邦がタイムスリップ、江戸時代から150年、老舗料亭「田中家」を通して知る神奈川宿の歴史とは? 後編

ココがキニナル!

龍馬の妻おりょうさんが働いていた事で有名な老舗料亭「田中家」の歴史を通じて現在の神奈川周辺と「田中家」の店内の調査を(浜っ子さん、カレー南蛮さん、ポスポスさん、やじやじさん、ピラフランチさん)

はまれぽ調査結果!

明治・大正時代、宿場町の役目を終えた神奈川は横浜の奥座敷として花柳界を形成。戦後までその面影はあり、現在の田中家にも受け継がれている。

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ライター:ほしば あずみ

江戸時代の東海道、神奈川宿の茶屋「さくら屋」が幕末に旅籠料亭「田中家」となり、明治時代を迎え、宿場町としての神奈川も姿を変えはじめていた・・・ところまでを前編でお伝えした。引き続き、キニナルハンター・光邦さんのナビゲートと共に、その後の田中家と神奈川宿を追ってみたい。



明治時代~大正時代に横浜の奥座敷へ



明治時代になると、商業的なにぎわいは次第に神奈川から開港都市・横浜へと移っていく。

旅は蒸気機関車や人力車、乗り合い馬車などに変化していき、旅人をもてなしていた茶屋は田中家のように料亭などへ様変わりしていった。横浜の奥座敷としてにぎわうようになった宿場町神奈川は、1901(明治34)年に横浜市へ吸収された。
 


1900(明治33)年ごろの田中家。現在の鶴屋町方面からの眺め

 
明治時代から大正時代にかけての田中家は、2代目当主晝間駒之助(ひるま・こまのすけ)と3代目当主晝間富長(ひるま・とみなが)の時代となる。

そのころの田中家は新政府の高官、横浜経済界の重鎮らに重用され隆盛を誇っていた。
 


田中家2代目当主、晝間駒之助
 

『横濱姓名録』(1898<明治31>年発行)和洋料理業の部に駒之助の名がある

 
前編でもお伝えしたように、写真好きだった駒之助は明治時代から多くの写真を残している。田中家を訪れた客の集合写真も多く、その風貌から錚々(そうそう)たる面々だったのだろうと推察されるが、横浜の歴史博物館や開港資料館に持ち込んでも人物の特定ができないという。
 


往時の偉人や要人が写りこんでいるかも?
 

新発見となるかもしれない大量の写真が眠っている

 
「料亭は、誰が来たとか、どんな話をしていたということを一切もらしてはいけない、こういう写真も表へ出すものではないと言われ、ずっとお蔵入りしていたんです。でも、神奈川・横浜の歴史を示す証拠になるものですから、写っているのが誰なのか、調査は続けていきたいです」と5代目当主の平塚あけみ女将は語る。
 


光邦さん「『はまれぽ』を見て、うちのご先祖が写ってる! なんて発見ないですかね」

 
1916(大正5)年には田中家は周辺の料亭幹部らと共に芸妓組合の改革を行い、新たな「芸妓組合事務所」を設立している。加盟したのは神奈川を中心とした41軒の料亭と、380人の芸妓、半玉(はんぎょく・芸妓見習い)、幇間(ほうかん・酒宴を盛り上げる芸人)だった。洲崎大社のある宮前には見番(芸妓組合の事務所)や待合があり、芸妓を送迎する人力車がずらりと並ぶにぎわいだったという。
 


1903(明治36)年発行の『横濱繁昌記』では芸妓は関内・関外・神奈川合わせて237人

 
田中家では外国人客を接待するため、2階にダンスホールをつくり、芸妓や女中にダンスを教えた様子などが伝わっている。
だが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災で田中家も壊滅的な被害を受け、当時の建物は焼失した。



幻のオリンピックと田中家



昭和に入ると、第12回オリンピックが1940(昭和15)年に東京で開催されるという話が持ち上がる。

第2会場となる横浜で、各国の委員会が集まる場所に選ばれた田中家は、敷地面積500坪の新築に着手。3階建ての壮麗な建物には200畳の大広間、ダンスホール、80畳の結婚披露宴席があった。新館は別館と渡り廊下でつながり、別館には広々としたローマ風呂、屋上には70坪の屋上庭園があったという。
 


「不夜城」のようだったといわれる田中家の表玄関
 

200畳敷の大広間。すごい遠近感
 

別館のローマ風呂。すべての工期1年半、完成は1931(昭和6)年

 
その後、東京オリンピックは幻と消える。太平洋戦争末期に田中家は一時、海軍の士官寮や日本鋼管の社員寮となったこともあるが、空襲によってそのほとんどを焼失した。

だが、関東大震災、空襲と2度の悲劇に見舞われながらも焼け残り、失われなかった建具の一部は、現在の田中家に受け継がれている。
 


この海老と蟹の欄間は文久年間(1861年~1864年)のものと伝わっている
 

外国人客向けに椅子を取り入れるスタイルも田中家の伝統
 

階段の踊り場には田中家の歴史を写した写真が飾られている

 
踊り場には閉ざされた扉があるが、この先には1993(平成5)年まで渡り廊下でつながる、大広間や大小の宴会場がある旅館部分が続いていた。
1952(昭和27)年に落成した新たな田中家は、戦後の復興と共にかつてのにぎわいを取り戻していたのである。