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85年以上も続く大倉山梅林の歴史とは?

ココがキニナル!

現在、大倉山公園の梅林の梅の木は、150本ほどあるが、昭和6年の開園当初は、何と千本以上の梅の木があったそうです。なぜ、梅林の規模が縮小されたのか?大倉山の梅林の歴史を知りたい(ねこぼくさんのキニナル

はまれぽ調査結果!

東急が開園させた梅林は1937年頃に1000本を超え、戦時中の伐採で縮小、戦後に復活。横浜市所有後に整備され、現在は200本となった。

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ライター:大和田 敏子

桃や桜に先駆けて花を咲かせ、春の訪れを告げる梅。万葉集では、梅の花を詠んだものが120首ほどで、その数は桜の3倍だという。
 


今回はそんな梅の話題!!

 


港北区の大倉山公園にある梅林の歴史に迫る



書籍や資料で調べてみたところ、大倉山梅林の歴史は東急東横線の変遷と密接な関わりがあるらしい。
そこで、東京急行電鉄株式会社社長室広報部広報課の天野恒夫(あまの・つねお)さんと環境創造局北部公園緑地事務所に資料の提供をお願いした。

さらに当時の様子に迫るべく、港北区の歴史に詳しい方に会いに大倉精神文化研究所へ向かった。
 


大倉山記念館は大倉山公園に隣接。この一角に大倉精神文化研究所がある
 

話を伺ったのは、研究部長の平井誠二(ひらい・せいじ)さん

 
大倉山公園は1931(昭和6)年、太尾(ふとお)公園として開園。大倉山公園と改称したのは1934(昭和9)年のことだ。

渋谷駅-神奈川駅間の直通運転開始し、路線名を「東横線」としたのは1927(昭和2)年のこと。1932(昭和7)年桜木町駅まで開通し、同じ年、太尾駅を大倉山駅に改称。
 


大倉山駅から梅林へは徒歩7分

 
東急では沿線の各駅周辺を住宅地や観光地として整備して乗客を誘致しようと考えた。

当初は太尾駅周辺の住宅開発を目指したが、急な坂や面積、鶴見川の氾濫で駅前が水没するなど条件が合わなかった。そのため、実業家で後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦(おおくら・くにひこ)氏に土地を売却し、大倉精神文化研究所の建築が決まったようだ。
 


現在の大倉山梅林周辺

 
東急では、1931(昭和6)年の研究所の竣工予定に合わせて隣接した寺院である龍松院(りゅうしょういん)の土地を買収し、梅林を整備。研究所の竣工は1年遅れ、梅林の開園が先になった。

その面積は約4万3000平方メートル(横浜スタジアム約1.6倍)。350本の梅が植えられた。梅の木は、東横線学芸大学辺りに別荘を持つ有力者の庭から移植したとか。近隣の農家からも集められたようだ。
 


1935(昭和10)年ごろの大倉山公園(提供:東急電鉄)

 
梅林があったとされるエリアの詳細は不明。のちの記録ではあるが、「梅園の中に東横神社や龍松院もある(1968〈昭和43〉年の東急電鉄社内報)」という内容の記述があり、現在(1万1000平方メートル)の周辺を含む広い範囲が梅林であったと考えられる。
 


現在の東横神社


現在の龍松院

 
梅は順次増え、珍種の苗木は保土ヶ谷岡野公園から移植、埼玉の農家から500本購入したなどの記述があり、1937(昭和12)年ごろには、1000本を超えたようだ。

1941(昭和16)年の東急社内報には「面積15000坪、千数百株」との記録が残っている。

第二次世界大戦中は、燃料用の薪を取るために多くの梅の木が伐採され、食料不足のため、木の下が掘り返されてイモ畑になったエリアもあり、梅林はすっかり荒廃してしまったという。

戦後、しばらくして、梅林は復活したようだ。1956(昭和31)年、東急電鉄が発行した『東急グラフ』には「一万坪余りの大倉山公園には一目千本の美観を呈し、ここを訪れる風流の人々は数万」とある。
 


1951(昭和26)年の梅林の様子(提供:東急電鉄)


1952(昭和27)年、開花時の行楽客(提供:東急電鉄)


1952年、大倉山精神文化研究所を臨む(提供:東急電鉄)

 
1960年代になると梅林はさらににぎわい、観梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に止まったこともあるという。
 


1960(昭和35)年梅の下には多くの人が集った(提供:東急電鉄)

 
1968(昭和43)年の東急社内報には「寒紅梅、白加賀など10種1000本」と書かれている。また、「3月3日の撮影会の人出は2万5千人」とも。
昭和30~40年代には、フィルム会社が主催する撮影会が催され、当日は特ににぎわっていたようだ。
 


1969(昭和44)年梅林での撮影会(提供:東急電鉄)

 
しかし、1976(昭和55)年の東急社内報には「約3万3000平方メートル、500本以上」、6年後の1982(昭和57)年には「500本」と記述があることから、しだいに梅林は縮小してきたと考えられる。

1980(昭和55)年以降になると沿線の開発が終わり、乗客数も増加。東急としては、短い梅の時期のためだけに梅林を維持するコストを考え、ここにテニスコートを作る計画が浮上したという。このことが地元住民の大反対にあい、横浜市が梅林を買収する後押しになった面もあるようだ。

そして、1983(昭和58)年から1986(昭和61)年にかけて横浜市が買収。
1987(昭和62)年に、横浜市が公園として再整備し、開園した。その時点で、梅林の梅は、紅梅白梅あわせて約20種150本だったという。

敷地は現在の大倉山公園の面積と同じ6万9000平方メートル(横浜スタジアム約2.6倍)で、そのうち梅林面積は約1万1000平方メートルとなる。

2013(平成25)年に北部公園緑地事務所が行った最新の調査によると、現在の梅の木は32種類、約200本まで増えている。
 


現在の大倉山公園。黄色の部分が梅林(提供:北部公園緑地事務所)