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「程ヶ谷」が「保土ヶ谷」になったのはいつ?

ココがキニナル!

今は保土ヶ谷と書かれていますが、東海道五十三次などを見ると、程ヶ谷です。いつごろ今の保土ヶ谷に変わったのかしら?(えみりさぱぱさん、浜っ子さん)

はまれぽ調査結果!

江戸の「保土ヶ谷」、明治の「程ヶ谷」を経て昭和初期から現在の「保土ケ谷」に至る。途中「保戸ヶ谷」などの表記も見られるが、正確な理由は不明

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ライター:田中 大輔

かつて、東海道の宿場町として大きく栄えた保土ケ谷。交通の要だった歴史のあるこの街には、たくさんの史料が残されていて、当時の様子や文化が今にも語り継がれている。

でも、地名のこととなると、実は謎が多い。現在の「保土ケ谷」という地名の由来にはいくつかの説があり、「これで決定!」とはなっていない。
 


地名の由来が分からない?
 

そしてもうひとつ、入り乱れているのが「ほどがや」という地名の表記だ。

現在使われているのは「保土ケ谷」表記だが、地誌を記した本を開いてみれば、「程ヶ谷」などの表記をいくらでも見つけることができる。その歴史の変遷はどうなっているのだろうか。



時代で変わる!? 「ほどがや」の表記



保土ケ谷の歴史に詳しく、はまれぽでも何度かお世話になっている近藤博昭(こんどう・ひろあき)さんに聞いた話とともに、地名表記の歴史を紐解いてみよう。
 


取材に応じてくれた近藤さん(写真は以前の取材時のもの)
 

まず、「ほどがや」という地名が登場する史料の中で、最も古いものは『神明社由緒書(しんめいしゃゆいしょがき)』で、ここでは「保土ヶ谷」と記されている。こちらは1543(天文12)年の史料だから、少なくともその時期には「ほどがや」という地名が存在したことは分かる。

その16年後の1559(永禄2)年に北条氏康(ほうじょう・うじやす)によってまとめられた『小田原衆所領役帳』にも、「保土ヶ谷」として登場している。
 


450年以上前は「保土ヶ谷」
 

それから50年もたたないうちに始まる江戸時代。1601(慶長6)年、徳川家康が幕府開府に際して発行した『傳馬ノ朱印(でんまのしゅいん)』という公式書類には、なんと「ほどがや」は「本と可や」という冗談のような書き方で記されている。
 


思わずコチラが「ホントかよ?」と聞きたくなる表記も
 

とはいえ、これが江戸時代のマジョリティーだったというわけではなく、近藤さんは「主流だったのは『保土ヶ谷』という表記だったようです」と話す。

保土ケ谷の郷土史を扱った資料を見ても、江戸時代の多くの文書で「保土ヶ谷」表記が用いられていることが分かるので、江戸時代には「保土ヶ谷」が多く使われていたようだ。
 


歴史ある町らしく、駅前には散策案内図も
 

しかし、明治維新が起きると事情が変わる。「明治政府は江戸時代のものを否定したかった」と話す近藤さんは、「だから、『程ヶ谷』を使うようになったんです」と続ける。

さすがに地名は変えられなかったものの、1873(明治6)年に建てられた現在の保土ヶ谷小学校は「程谷学舎」だったし、1887(明治20)年開業の保土ヶ谷駅は「程ヶ谷駅」だったのだそうだ。
 


現在の保土ケ谷駅。1931(昭和6)年からこの表記になった
 

近藤さんによれば、その後、昭和の初期ごろから「保土ヶ谷」表記に統一されるように変遷していったのだが、「正確な理由は分からない」とのこと。

ただ、1927(昭和2)年に区政が始まっているので、公式に「保土ヶ谷」とされたことで表記が統一される方向に向いたのかもしれない。