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激動の歴史を経た川崎の二ヶ領用水の変遷とは?

ココがキニナル!

二ヶ領用水は慶長2年に完成し、四百年以上利用されて来た歴史ある用水です。用水の歴史や、用水がどのように機能しているのかについて詳しく知りたいです。(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

二ヶ領用水は1611(慶長16)年、農業用水として作られ、生活用水、工業用水としても活用された。役目を終えた現在は、市民の憩いの場となる

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ライター:ムラクシサヨコ

川崎のお花見スポットである二ヶ領用水。筆者は以前、二ヶ領用水からそう遠くないところに住んでおりその名を聞いたことはあったが、見に行ったことはなく、「古い用水がある」というレベルの知識しかなかった。

ネットで調べてみると、「二ヶ領せせらぎ館」という施設でいろいろ教えてもらえるらしい。ということで、登戸駅から徒歩5分ほどの場所にある「二ヶ領せせらぎ館」へと足を運んだ。


登戸駅から二ヶ領せせらぎ館へ向かう


二ヶ領せせらぎ館に到着


床には地図のプリント。迫力アリ!


多摩川の源流から東京湾までの広大な地図。真ん中あたりに二ヶ領用水が


多摩川に住む魚も展示している


二ヶ領せせらぎ館は、1999(平成11)年4月に開館。地域の町内会と市民団体、漁協などの代表者による「NPO法人多摩川エコミュージアム」が館の管理と運営を行っている。館内では、各種資料を展示しているほか、ボランティアスタッフが二ヶ領用水や多摩川について解説している。

今回は、NPO法人多摩川エコミュージアム事務局理事の戸高修(とだか・おさむ)さんに取材対応していただいた。


優しい笑顔の戸高さん。来館者に丁寧な説明をしてくれる


二ヶ領用水は、正式には「稲毛・二ヶ領用水」といい、名前の由来は、川崎領と稲毛領の「二つの領に流れる用水」なのだという。

「二ヶ領用水のことは、近くに住む人や近隣の学校の先生も知らない方が多いんですよ。なので、ここでいろいろなことを知ってほしいと思っています。ところで、二ヶ領用水は、当初は四ヶ領用水だったんですよ」と戸高さん。

四ヶ領用水?

「本当は二ヶ領用水はもう一つあったんです。今はどこにあったのか不明なのですが」と語る。かつて、多摩川をはさんだ向かい側、世田谷領と六郷領を流れる「もう一つの二ヶ領用水」があり、合わせて「四ヶ領用水」といっていったのだそう。宅地化が進んだ今、どこを流れていたのかまったく分からないのだという。



徳川家康の命で作られた二ヶ領用水



江戸の町をつくるにあたり、まずは食べ物が必要ということで、多摩川沿い周辺が農業地として開墾(かいこん)された。稲毛・二ヶ領用水(以下、二ヶ領用水)は、農業用水としてつくられたのだ。


1856年の武蔵国の古地図。↓のあたりが現在二ヶ領用水が流れているところ


江戸城に入城した徳川家康は、用水奉行の小泉次大夫(こいずみ・じだゆう)に稲毛・川崎領への用水の開削を命じた。多摩川は、何度も大洪水を発生させていて、周辺の村は荒れ果てていた。ここを農業地として開墾しようとしたのだ。

1597(慶長2)年に二ヶ領用水の工事が始められ、14年の年月をかけ、1611(慶長16)年に完成した。工事は周辺の農民が協力。もちろん当時は今のような大型の工事道具などはないので、人の手でつくられた。気の遠くなる作業!

小泉次太夫は、用水竣工の翌年に用水奉行の職を引退し隠居、1623(元和9)年に85歳の生涯を閉じた。

川崎市の妙遠寺(みょうおんじ)に小泉次太夫の銅像と小泉次太夫夫妻の墓がある。


妙遠寺


小泉次太夫の銅像。この後ろが墓


また、妙遠寺の入り口には、泉田二君功績碑という石碑が建っている。これは、小泉次太夫と二ヶ領用水の改修工事を行った田中休愚(たなか・きゅうぐ)(1622-1729)という江戸中期の農政家の2人の功績をたたえるもの。


泉田二君功績碑(「泉田」の泉が小泉次太夫、田が田中休愚を表す)


網の目のように張り巡らされた用水は、稲毛領37村、川崎領23村、計60の村を潤し、周辺地域に大きな恵みをもたらした。稲作がさかんになり、稲毛地区で採れた米は「稲毛米」とよばれ、徳川家光が鷹狩りに来た際に食べて以来、将軍家でも食されるように。江戸の寿司飯として人気だったようで、今はその味を知る術もないが、大変に美味だったのに違いない。米のほかにナシやモモも栽培されて、江戸の食を支える農業地となった。

一方で、住民の間では、地域ごとに水の取り合いのような状況も生まれていた。用水の水量は上流からの流量が変わると変化し、川幅や深さによっても水量が異なる。用水を分配するための分量樋(ぶんりょうひ)の樋口(ひぐち)をせきとめて、自分の地域の用水量を増やそうとする農民もいたのだとか。1821(文政4)年には、「溝口騒動」と呼ばれる用水をめぐった争いが起こっている。



時は流れ、1941(昭和16)年、久地に二ヶ領用水の水量を公平に分けるための施設「円筒分水」が作られる。これは、円形の施設で、サイフォンのように下から水を沸きあげるもの。

 


竣工直後の久地円筒分水(写真右側)(c)高津区ふるさとアーカイブ

 
地域ごとに灌漑(かんがい)面積に合わせた比率で円周を仕切って水を落下させる仕組みになっており、公平に水をわけることができる。これで水を分ければ、「あっちの村のほうが農地が小さいのに、うちより水が多い!」というケンカにならないのだ。当時としては画期的な技術で、現在、国の登録有形文化財となっている。
 


昭和20年代の久地円筒分水。子どもたちが泳いでいる(c)高津区ふるさとアーカイブ
 

現在の久地円筒分水
 

湧き上がった水が分けられていく

 
二ヶ領用水は、水道が普及するまで、農業用水のほかに工業用水、生活用水としても使用されており、周辺住民の生活になくてはならない存在だった。
 


二ケ領用水の染物風景(昭和20~46年に撮影されたもの)(c)高津区ふるさとアーカイブ

 
戦前から戦後にかけて、少しずつ用水のコンクリート化が進められ、周辺は農地から宅地へ変貌。水道が普及し、役割を終えた二ヶ領用水は埋め立てられたり暗渠になったりして、姿を消していった。残された用水も、排水が流れ込んで汚染が進んでいたが、「貴重な歴史遺産である二ヶ領用水を保存していこう」と、戦後、数多くの市民団体が誕生。親水公園として、川辺の散策路が整備されている。
 


2012(平成24)年に開催された二ヶ領用水ボート下り(c)高津区ふるさとアーカイブ

 
 
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