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立入禁止の扇島、かつて海水浴場としてにぎわっていたって本当?

ココがキニナル!

扇島は昭和30年ごろまで、海水浴場として有名だったそう。扇島は夏場は20万人の人出で賑わっており「ポンポン船」という船で、海水浴客を運んでいたそうです。当時の様子と扇島の歴史が知りたい(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

鶴見沖に浮かぶ扇島は京浜地区開発の偶然から人の手が生み出した海の楽園だった。昭和5年に開業した海水浴場は約30年に渡り、多くの人に愛された

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ライター:永田 ミナミ

扇島とは



扇島は鶴見区安善町と大川町の沖に浮かぶ人工島であり、現在は全体がJFEスチールの私有地であるため関係者以外立入禁止の島でもある。
 


安善町から海の向こうに味わい深い標識とともに眺めた夕闇に浮かぶ扇島


JFEスチールは、2002(平成14)年にNKK(日本鋼管)と川崎製鉄の経営統合で発足したJFEホールディングスのもと、2003(平成15)年に設立された企業である。扇島は統合した一方である日本鋼管が、10ヶ所に分散していた工場施設を集約させるために、「扇島計画」として1971(昭和46)年着工し埋め立てた人工島のことである。
 


扇島は西側約半分が横浜市鶴見区、東側が川崎市川崎区である(Google Mapより)


ということは、以前調べた、同じ埋立地である神奈川区守屋町に、工場や倉庫の誘致が進むまで開設されていた新子安海水浴場と同じ経緯かなと思ったが、1971(昭和46)年着工は投稿にある「昭和30年代ごろまで」とは時差がある。
 


埋立地のへりから階段で海に降りるノービーチの新子安海水浴場(横浜市中央図書館所蔵)


その後、工場や倉庫が埋立地を埋め、2014年の守屋町


新子安海水浴場の閉鎖年が取材後に『横浜市史稿 風俗編』に載っていたのを思い出し、見てみたのだが扇島海水浴場については載っていない。扇町海水浴場は『風俗編』が発行された1932(昭和7)年以降にできたようである。

開国によって欧米からもたらされた海水浴が最新のレジャーだった明治・大正の海水浴場は、当時の遊覧案内などで多く紹介されているのだが、そうした資料で知ることは期待できなくなった。

と思ったら、川崎市の史跡などを紹介する『かわさき区の宝物』に「京浜運河の開削によって浚渫(しゅんせつ:水底の泥をさらって深くすること)した土砂を投棄していた場所が次第に砂州となり海水浴場へと発展した」とあるのを見つけた。

扇島海水浴場は、人工的ではあるが意図せずに現れた海水浴場だったのである。



扇島ができるまで



鶴見川と多摩川にはさまれた地域の沿岸は、両河川から流出する土砂が堆積し遠浅だった。そのため、江戸時代から明治にかけてたびたび埋め立てによる新田開発が進められていた。
 


池上新田や渡田新田など多くの地名があったが、現在残るのは田辺新田のみ


セメント事業や造船、鉄鋼、鉄道、教育など多くの事業を手がけた浅野総一郎は、1896(昭和29)~1897(明治30)年の外遊で欧米の港湾施設に衝撃を受け、帰国後すぐに京浜地区の埋め立てと運河開削を決意する。

遠浅の地形は埋め立てには適していたが、遠浅であるため大型船が航行できず、京浜間の輸送は手漕ぎの艀(はしけ)で行われ非常に効率が悪かった。さらに沖合に防波堤がなかったため、転覆事故も頻発していた。

当時、上海の紡績会社が東京の芝浦製作所に大型ボイラーを発注しようとしたところ、東京〜(横浜)〜上海間の輸送費が1000円(現在換算で約380万円)。ところが上海〜マンチェスター間は700円(現在換算で約260万円)で、イギリスに注文するほうが安くなってしまったという。

こうした問題を解決するため、東京市や神奈川県に計画を申請するが難航。最終的に安田財閥の創立者である安田善次郎(やすだ・ぜんじろう)と第一国立銀行や王子製紙、大阪紡績などの創立者であり多くの社会事業にも貢献した渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の協力を得て、1912(明治45)年3月に「鶴見埋立組合」を設立。翌1913(大正2)年ようやく事業免許を取得する。
 


新子安の高台から念願だった工業地帯の繁栄を眺める浅野総一郎像


防波堤をつくり、運河を開削し、その土砂で約500ヘクタール(500万平方メートル、横浜スタジアム約190個分)の埋め立ても行なってしまおうという計画であるが、この「防波堤」と「土砂」が扇島海水浴場を偶然つくり出すことになる。
 


1933(昭和8)年発行の『大横浜最新明細地図東北部』(横浜市中央図書館所蔵)には


砂州は描かれていないが防波堤の下に「場浴水海島扇」とある


「鶴見埋立組合」は1914(大正3)年に「鶴見埋立株式会社」、さらに1920(大正9)年「東京湾埋立株式会社」へと発展。同年、浅野総一郎は1917(大正6)年に宇都宮金之丞(うつのみや・きんのじょう)が設立していた「京浜運河株式会社」の社長にも就任する。

1913(大正2)年~1922(大正11)年にかけて、小野新田、添田新田、新井新田の地先に末広町、安善町、白石町、大川町が、1921(大正10)年~1929(昭和4)年には生麦沿岸が埋め立てられた。この埋立には京浜運河開削によって生じた土砂が用いられたのだが、土砂は沖合の防波堤の外側にも投棄された。

そしてその土砂が堆積し、海上に扇状の砂州を形成した。これが「扇島」である。『川崎地名辞典』には「砂州の形が扇形であったことからこう呼ばれたという。或いは扇町の南の海にできた島なので扇島と云われたのかもしれない」とある。ちなみに「扇町」は浅野家の家紋に由来する。
 


1937(昭和12)年発行の「大横浜市全地図第二回」(横浜市中央図書館所蔵)には


扇型の砂州も描かれている
 


これは1944(昭和19)年の航空写真(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより)


扇島の砂州は約40年に渡って存在したのである。



海水浴前駅跡へ行ってみる



上の地図と写真から分かるように、扇島海水浴場は埋立地から「京濱運河」をはさんで沖合の防波堤の海側に位置している。この沖に浮かんだ海水浴場に客を運ぶために設けられた「竹之下渡船場」から、投稿にもある動力船が曳航する渡し船が往復していた。
 


その航路は地図に赤い点線で示されている


前述の『かわさき区の宝物』には「現在の田辺新田、竹の下踏切あたりには昭和6年(1931)8月に夏季限定の鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)『海水浴前』駅が開業」したとある。

『大横浜市全地図第二回』を見てみると海水浴前駅が載っていたので、現在の地図に重ねて現場に行ってみることにした。
 


JR浜川崎駅で下車して歩くこと10分


海水浴前駅があったのはこのあたりだろうか


竹之下橋から駅があったと思われる場所を振り返る


現在は緑に覆われ何も見えないがこのフェンスの先に「竹之下渡船場」があった


渡し船が往来していた場所を近くで見られないかと埠頭の先へ行ってみると公園発見


渡船場があったのは向こうに見える建物のあたりだろうか


さらにその先へ進んでいくと「川崎総合物流運輸協同組合」の敷地だった


公園は海側に木々が生い茂っていて渡し船の航路全体が見渡せなかったので、数枚だけ写真をと事務局に許可を得て敷地内へ。


かつて海水浴客を乗せた渡し船が曳航されていた運河


その先には現在の扇島が見えた


さすがに現在の風景から海水浴場の気配を感じることはできなかったが、鶴見臨港鉄道株式会社に問い合わせてみると写真を貸していただけることになり鶴見へ。

私鉄だった鶴見臨港鉄道は1943(昭和18)年に国有化され、鉄道事業からは離れたが、会社は存続している。1959(昭和34)年に鶴見駅西口に所有していた鉄道用地に「臨港ビル計画(現在のミナールビル)」が浮上したのを契機に不動産事業へと転換したのである。