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全焼した海軍料亭「小松」が歩んだ130年の歴史とは?

ココがキニナル!

燃えてしまった料亭小松について歴史や最近の事を詳しくおしえて(マイクハマーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1885年、横須賀市田戸(たど)に開業した料亭。横須賀海軍の将校が常連だったことから「海軍料亭」と呼ばれたが2016年5月、全焼。今後は未定

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ライター:やまだ ひさえ

2016(平成28)年5月16日、横須賀市に衝撃が走った。
軍都・横須賀の発展の一翼を担った横須賀海軍の将校たちが常連だったことから「海軍料亭」と言われていた老舗料亭「小松」が火災で全焼したというニュースが報じられたからだ。
ニュースを耳にし、筆者もそうだが、横須賀市民やこの一帯の地理を知る人の中には疑問に思った方も多いのではないだろうか。

というのも、小松は、国道16号線と米が浜通(よねがはまどおり)が交差する場所にあり、隣が横須賀市消防局中央消防署だからだ。
 


消防署と隣接している
 

当日の状況を横須賀市消防局で聞いてみた。担当の野田佳孝(のだ・よしたか)さんによると、通報があったのは午後5時11分。車で小松の前を走行中の人からの一報だった。
通報から2分以内という短時間に消火活動を開始したが、既に建物の外に火が出ている状態で、消火は困難を極めたという。


23台の消防車が出動し消火活動にあたったが、火災のあった5月16日は月曜日で、小松が定休日だったために発見が遅れた。また、木造で火の回りが早かったことや、焼け落ちていた2階部分を取り除きながら消火にあたったため、火災の鎮圧までに14時間近い時間がかかった。
 


趣のある建物も貴重な資料も焼失した(撮影:のりまき

 
出火原因については、消防と警察が調べを進めているが、取材した7月初旬時点で、まだ特定できていないとのことだった。救いは定休日だったために、建物内に人がおらず、けが人が出なかったことだ。

 
 
 

軍都・横須賀の発展とともにあった「料亭小松」



横須賀でも老舗で知られる料亭小松の歴史は、創業者である初代女将、山本コマツ(やまもと・こまつ)によって始まった。
 


山本コマツ(『山本小松刀自傳(やまもとこまつとじでん)』より)
 

コマツは幼名を悦(えつ)といい、1849(嘉永2)年4月、江戸小石川関口水道町(こいしかわせきぐちすいどうちょう・現在の東京都文京区)で、男4人、女4人の8人兄弟の三女として生まれた。

父の新蔵(しんぞう)は、大和国浅古(やまとのくにあさご・現在の奈良県桜井市)で苗字帯刀も許された大庄屋の息子で、単身江戸に出て「浅古屋」という乾物商を営んでいた。

順調に進んでいた商売だが、コマツが10代半ばのころ新蔵が大病を患い家業は没落。子だくさんだったこともあり、家計はかなり苦しかったという。

「苦労する両親に楽をさせてあげたい―」

コマツはその一心で働きに出ることを決意。近所に住んでいた年上の、お梅(うめ)という娘に誘われ、浦賀に向かった。1866(慶応2)年7月、コマツ18歳のことだった。
 


1890年ごろの浦賀
 

浦賀は、1721(享保6)年に江戸湾を出入りする船の検閲を行う船番所(ふなばんしょ)が設けられ、日本有数の港として知られていた。さらに1853(嘉永6)年、1854(嘉永7)年のペリーの来航で江戸まで広く名前が知られていた。
 


船番所の出先機関があった陸軍桟橋(ウェブサイト「ここはヨコスカ」より)
 

廻船問屋や米問屋、旅籠が並び、西の長崎に並び称されるほどのにぎわいを見せていた浦賀。

当時の様子をコマツは『山本小松刀自傳(刀自とは女性の戸主を指す言葉)』の中で、「その頃の浦賀町の繁盛と申すものは大層なものでして、今から振り返って見ますと別な世界ででもあったような気がいたします位です(原文ママ)」と語っている。

コマツは浄瑠璃常磐津(じょうるりときわづ)を、裕福な町医者の娘のお梅も幼少期から芸事に勤しんできた。にぎわっている浦賀なら芸で一働きできるはず。それがお梅の思惑だった。
 



三味線一棹(さお)と着替えを包んだ風呂敷を携え浦賀にやってきた(フリー画像より)
 

二人が頼ったのは、お梅の知り合いという廻船問屋「松崎屋」の隠居の松蔵(まつぞう)だった。

松蔵は浦賀でも有数の規模を誇る商人だったが、江戸からはるばるやってきた若い娘を不憫に思ったのか、はたまた荒っぽい船頭相手では勤まらないと思ったのか、「当分私の家で遊んでいなさるといい」と言って逗留させてもらうことになった。

松崎屋で家事の手伝いをしながら過ごしていたコマツとお梅だったが、2ヶ月もするとお梅が江戸に戻りたいと言い出した。しかし、江戸を立つときに親子の縁を切ると言われているコマツは戻ることはできない。その上、仕送り一つできていなかった。

駿府(すんぷ 現在の静岡県)の知り合いを頼ることにしたコマツも浦賀を去ることにし、別れの記念にと、松蔵はコマツを浦賀の名物と評判だった旅籠料理「吉川(よしかわ)屋」のソバを食べに連れていった。
 


吉川屋は西叶(にしかのう)神社の先にあった(ここはヨコスカより)
 

この席でコマツは、吉川屋の女将、およしに乞われて得意の常磐津を披露。歌声を気に入られ、そのまま働くことになった。