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元ベイスターズ選手のセカンドキャリアとは?-秦裕二さん-

ココがキニナル!

2011年に退団した元横浜ベイスターズ選手、秦裕二さんのセカンドキャリアとは?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

退団後、NPBやアメリカ独立リーグ、台湾リーグのトライアウトを経て、現在は富山GRNサンダーバーズの投手兼任コーチとしてチームを支えている

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ライター:山口 愛愛

「洗濯ですね」。かつてのベイスターズ選手に「いま一番大変なこと」を聞いてみると意外な答えが返ってきた。毎日練習から帰り、独り暮らしでユニホームや練習着を洗って干す生活。これが正直な気持ちなのだろう。

今年2016(平成28)年の春にも全国制覇を果たした奈良県、智弁学園の元エース。2001(平成13)年にドラフト1位で横浜ベイスターズに入団した秦裕二(はた・ゆうじ)さん。

 

投手を続けている秦裕二さん

 
32歳となったいま、横浜から約250km離れた富山県で投げ続けていた。2011(平成23)年にベイスターズ退団後、1年半の野球浪人の時期を乗り越え、辿り着いた地だ。
独立リーグの富山GRNサンダーバーズで投手コーチ兼任選手として野球選手であり続ける秦さんの思いを探るため、富山県高岡市にある高岡市営城光寺野球場に向かった。



目標はプロ野球に続く甲子園



「おぉ、よく来てくれましたね」。日焼けした肌から白い歯をこぼし、笑顔で迎えてくれた秦さん。ベイスターズ時代はストイックでクールなイメージだったことを伝えると、「そんなことないですよ。でもここに来て人間的に成長できた気がしてるんで、丸くなったのかな」と照れ笑いを浮かべ、丁寧に受け答えに応じてくれた。秦さんとともに野球人生を振り返る。

 

練習の合間に時間を取っていただいた

 
奈良県生駒市に生まれ、西鉄ライオンズファンの父と、野球チームに入っていた6歳上の兄の影響で、幼稚園のころからおもちゃ代わりにバットを手にしていた秦さん。

西武ライオンズのファンクラブに入り、大阪府にある藤井寺球場や兵庫県のグリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド)にも足を運び、渡辺久信(わたなべ・ひさのぶ)さんや工藤公康(くどう・きみやす)さんらの投手に憧れた。「テレビによく映るのはピッチャー。小学生のころからプロ野球選手になりたいと思っていた」といい、小学生のクラブチームのころから投手ひと筋だ。

 

関西出身では珍しく西武の帽子を被っていた

 
ボーイズリーグに入っていた中学時代は「チームも弱いし、パッとした選手ではなかった」というが、中学3年生のころに転機が訪れる。

チームの先輩が甲子園大会に出場し応援に行くと、1つ前の試合に智弁学園が出場していた。智弁学園はサヨナラ負けをしたが、地元の奈良県代表の強豪校だと知り、「この高校に行って甲子園で投げたい」と強く思ったそうだ。その背景には「プロ野球に入ることを考えたら、甲子園に行くのが近道」という考えがあった。

 

小学生のころからプロ野球選手を意識していた(画像:Wikimedia Commonsより)

 
チームの監督の力添えもあり、智弁学園の野球部に入部。体重60kgほどの細身で、寮長をはじめ周囲は野球部でやっていけるのか心配したが、投手コーチの評価は違った。

秦さんに高校で開花した理由を聞いてみると「たまたまかな。少人数で内容の濃い練習ができたのがよかった。僕は投手しかできないので野手にもなれず・・・」と謙遜するが、中学3年生のころ智弁学園の投手コーチに、投げるときに腕が背中の後ろ側に入るクセを直すようにいわれ、入部までに「徹底的に修正した」という。

コーチは投手候補の中学生5人それぞれに課題を出していたが、クリアして入部してきたのは秦さんだけだった。のちに3人は野手に転向することになる。足りない部分を積み上げていく、秦さんの努力が実を結んでいるのだろう。

 

ピッチングフォームを改良してきた

 
1年生の夏に甲子園大会のベンチ入りは果たしたが、登板機会はなかった。3年生になると背番号1を背負い、憧れの甲子園のマウンドへ。2001(平成13)年の春の大会は1回戦で神奈川県代表の桐光学園に5対3で敗れるが、夏の大会は1回戦で静岡高校に13対2、2回戦は前橋工業高校に3対0と勝ち進む。3回戦で松山商業に3対4で敗れるが、秦さんはすべてを完投しエースの役割を果たした。

 

春、夏4試合を完投(画像:百楽兎/ Wikimedia Commonsより)

 
甲子園での思い出は「桐光学園戦で敬遠して満塁策を取った後、2者連続デッドボールで押し出したこと。悪い思い出の方が残っていますね」と苦笑い。しかし、このデッドボールに秦さんの信条が隠れていた。

県大会の途中までアウトコースを中心に投げていたが、準決勝の高田商業戦でコーチから「インコースで抑えて自分の特徴を生かせ」といわれ、三振を14個取り、自信を持って投げられるようになったという。

甲子園大会の満塁のピンチでも逃げずにインコースを攻めた結果デッドボールにしてしまったが、「NPB(日本プロ野球)でも、インコースを攻められなければ通用しないし、長くやっていけない」と語気を強める。

 

インコースに強い球が投げられるかが重要

 
甲子園での好投が新聞で取り上げられ、プロ野球が近づいてきたことを感じたという秦さんは、「メディアに注目され、調子に乗って左右されたところもある」と笑う。

攻めのピッチングと多彩な変化球の評価は高く、横浜ベイスターズに指名され2001(平成13)年入団。数チームの指名候補になっていると報道されていたが、横浜ベイスターズが寺原隼人(てらはら・はやと)選手を1位で指名し抽選で外れ、続いて秦さんを指名。こうして華々しくドラフト1位で夢のプロ野球界へ踏み入れた。