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大正時代におきた謎の現象!? 茅ヶ崎の「旧相模川橋脚」とは?

ココがキニナル!

茅ヶ崎にある天然記念物「旧相模川橋脚」、元々何もない場所に突然出現したとか、これがきっかけで頼朝が亡くなったとか。そもそも橋脚と言えば人工物なのに天然記念物の旧相模川橋脚がいろいろキニナル(tAさん)

はまれぽ調査結果!

鎌倉時代の橋梁遺構「旧相模川橋脚」は関東大震災の液状化で出現した国指定史跡・天然記念物。頼朝義経の兄弟伝承があったり画期的な保存整備もされている。

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ライター:岡田 幸子

茅ヶ崎市下町屋(しもまちや)にある「旧相模川橋脚」といえば、1926(大正15)年10月20日に指定を受けた国指定史跡。

 

 ヒノキを加工した橋杭(はしぐい)が
 

 計10本残る


鎌倉時代の1198(建久9)年、源頼朝の家来・稲毛三郎重成が相模川に架けた橋であるとされ、中世の橋梁遺構として評価を得ている。
 
国指定史跡といえば、現在は神奈川県立歴史博物館となっている横浜正金銀行本店や、建長寺境内・庭園など、国内の名だたる歴史的名勝がずらりと並ぶ。

・・・が、なかでも「旧相模川橋脚」は「出物」だ。誕生時のエピソードから発見の経緯、さらに現在の保管状況に至るまで、キニナル部分が山ほどあるのだ。「旧相模川橋脚」のキニナルあれこれ、探ってみよう。

 

 茅ヶ崎市南西部、国道1号沿い
 

 「新湘南バイパス」「茅ヶ崎西」インターチェンジ(IC)付近に急げ!



 

人工物なのに天然記念物!? 橋脚発見の経緯がキニナル


 
「旧相模川橋脚」は、国指定の史跡でありながら、天然記念物の指定も受けている。

 

 どう見ても人工物なのに「天然」とはこれいかに?


この謎を解くカギは、「旧相模川橋脚」発見時のエピソードに隠されている。

「旧相模川橋脚」が発見されたのは1923(大正12)年。9月1日の関東大震災本震と翌1月の余震によって、当時水田であった現地に突如出現したのだ。

  

 ニョキニョキっとな♪(※画像提供元は記事末尾参照)
 

 当時の写真は現地パネルでも見られる(『柴田常恵写真資料目録Ⅰ』より※)


「旧相模川橋脚」に詳しい、茅ヶ崎市教育推進部社会教育課の富永富士雄(とみなが・ふじお)さんに話を聞いた。

「鎌倉時代に作られてから関東大震災までは900年近くもの間、誰にも気づかれることなく地下深くで眠っていました。発見当時は田んぼとして利用されていた土地ですから、少なくとも耕作に関わらない程度の深さに埋まっていたと考えられます」

 

 「いろんな意味で大変興味深い史跡なのです」と富永さん


「それが、大震災によって引き起こされた液状化現象で、周辺の砂が吹き上げられる『噴砂(ふんさ)』とともに突如出現したのです」

液状化現象とは、地下水を含んだ砂まじりの地層が地震の揺れによって振動し、液体のように流動する現象だ。近年の大きな地震では液状化現象による噴砂でマンホールなどが押し出され、道路から突き出る被害を目にすることがあるが、同様のことが橋脚に起こったのだ。

 

 噴出した砂が橋杭周囲に広がっている(※)


相模湾を震源とする関東大震災では、マグニチュード7以上の地震が5分間に4回も発生。茅ヶ崎でも民家や駅など多くの建物が全半壊の被害を受けた。

調査により、「旧相模川橋脚」橋杭周辺には噴砂の痕跡や地層の変形が多数確認されている。これらは液状化を裏づける証拠であり、改めて地震の力の大きさを実感させてくれる。

 

 噴砂によって変形した砂礫層(されきそう)も確認(※)


これらにより、「旧相模川橋脚は」地震の痕跡を刻む震災遺産として、2012(平成24)年に国から天然記念物の指定を受けた。液状化現象の痕跡としては全国初の天然記念物指定であり、地震という災害の恐ろしさをいまに伝える貴重な存在なのだ。


 

頼朝をめぐる因縁が!? 橋脚の伝承がキニナル


 
「旧相模川橋脚」が1198年、源頼朝の家臣・稲毛三郎重成の手によって架橋されたことは先にも触れたが、この建造にまつわる逸話も大変興味深い。

稲毛三郎重成は先日「稲毛米」の記事でもご紹介したとおり、平安末期から鎌倉初期にかけて現在の川崎市から東京都稲城市あたりの多摩丘陵地域を治めた武将だ。鎌倉幕府の御家人となり、源頼朝の正室である北条政子の妹を妻に迎えた。

 

 川崎市多摩区生田緑地内の枡形山に居城を構えたとされる


1195(建久6)年6月、 頼朝に伴って京都へ行った帰り道、重成は美濃国(岐阜県南部付近)で妻の危篤の報を受けた。頼朝から駿馬を賜り全速力で本領に戻るが、それでも妻の死に目に会うことはできなかったという。

 

 旧美濃国「岐阜羽島」駅から「新横浜」駅までは新幹線「ひかり」でも1時間38分


「資料はありませんが、相模川で足止めされたために逝去の瞬間に間に合わなかったのかもしれません。そうした悔いから橋を架けたとも考えられます」と富永さん。

そうして1198年、亡き妻の供養のために、重成は相模川に橋を架けた。同年末には橋が完成すると盛大な落成供養の式典を開催し、頼朝らもこれに参列したという。

 

 『かながわの古道(1981・阿部正道)』を参考に推定された中世の古道(※)


キニナルエピソードはこの後だ。『吾妻鏡』には式典に参列した頼朝が帰路で落馬し、その時の怪我が元で翌年1月に死去したとある。また、『保暦間記』には「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記してあり、茅ヶ崎市南西部の「旧相模川橋脚」周辺地域には「帰路に義経一族の亡霊に出会い、驚いて暴れる馬から落ちたことをきっかけに頼朝は亡くなった」との伝承が残っているのだという。

富永さんによると「頼朝の死因については諸説あり、亡霊説や落馬説の信憑性は確かなものとは言えません。しかし、言い伝えとして地域各所に残っているのは事実。市内では「鶴嶺八幡宮」の参道に弁慶を供養する『弁慶塚』があり、南湖の住宅街に残る『御霊(ごりょう)神社』は義経の霊を祀ったものだと言われています」とのこと。

今回は「旧相模川橋脚」周辺で義経伝説にまつわる場所を尋ねてみた。まずは「鶴嶺八幡宮」、こちらの記事でも紹介した「南湖の左富士」で名高い国道1号「鳥井戸橋」の西詰にある赤い鳥居が目標だ。

 

 750メートル続くという「鶴嶺八幡宮」参道
 

 鳥居をくぐってすぐの左手に
 

 「弁慶塚」の石碑あり。周辺の店舗で尋ねると
 

 民家の敷地の奥にある・・・
 

 「弁慶塚」に案内してもらえた
 

 参道をさらに進むと関東進出した源氏の初氏神「鶴嶺八幡宮」が

 
続いて「御霊神社」は国道1号とJR東海道線を挟んだ南側、古くは漁師の集落であったという南湖の住宅街にある・・・

 

 車の離合も難しい細い路地をくねくね進むと
 

 家々の間に赤いポストと鳥居が見つかる
 

 非業の死を遂げた人の怨霊を鎮める「御霊神社」
 

 由緒には義経の亡霊と頼朝の落馬についての記載も