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昭和の時代に南区にあったストリップ劇場「春風座」とは?

ココがキニナル!

昭和の時代に存在した南区通町の「春風座」を調べてください。劇場内に空中ゴンドラがあったり、ポスターなどが貼ってあったりで、有名な劇場だったらしいです。(ペテン師さん/ピエロさん/あさおかさん)

はまれぽ調査結果!

映画館がストリップ劇場になったもので、空中ブランコや鳥かごゴンドラなどの舞台装置があった。時代の流れで客が少なくなり1982年ごろに閉店した。

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ライター:小方 サダオ

南区にあったストリップ劇場



過去に取材したストリップ劇場には、京急線日ノ出町駅近くの「横浜ロック座」や、かつて黄金町にあった「黄金劇場」などがある。今回は、南区にあったというストリップ劇場について、調査することに。

「春風座(しゅんぷうざ)」というさわやかな名前のストリップ劇場は、正確な場所が分からないため、取材でたびたびお世話になっている、南区弘明寺の質店店主を尋ねることにした。
 


横浜市営地下鉄弘明寺駅

 


春風座について周辺住民に聞く



質店の店主に春風座について伺うと「弘明寺は昔から繁華街で、昭和30年代には東宝系の有楽座など3つの映画館がありました。ここから少し離れた通町(とおりちょう)の春風座は、以前は松竹系の映画館で、その後ストリップ劇場になりました。私は当時小学生でしたが、春風座は男子の間でエッチな話題として上っていました」という。
 


春風座があった場所(Googlemapより)

 
近くに弘明寺という繁華街があったため、春風座はにぎわったのかもしれない。
 


春風座から近い弘明寺商店街

 
通町に近い鮮魚店の店主に伺うと「チャンバラ映画などをやっていた映画館がアダルト作品を上映するようになり、その後ストリップ劇場になりました。1984(昭和59)年ごろにストリップ劇場の場所は今のマンションになりました」

「春風座の看板を私の店に設置させてあげたら関係者がサービス券をくれたので、酔っぱらった時にからかい半分で覗きに行ったことがありました。外館は映画館と同じで、内部も映画館のスクリーンが残っていました。中央にせり出した円形の舞台の周りに客席があったのです。踊り子さんは20~50代でした。昼間、当店に魚を買いに来たことがあったので、踊り子さんは劇場の近くに住んでいたのかもしれません」とコメントしてくれた。

投稿の「空中ゴンドラ」について伺うと「昭和40年代ごろ私が行った時はそのようなものはありませんでした」とのことだった。
 


春風座のあったあたり

 
井土ヶ谷と弘明寺方面を結ぶ道路の向かいのあるお店の店主に伺うと「春風座があったあたりは1975(昭和50)年ごろまでは、市の払い下げた土地にバラックのマーケット店が並んでいました。市電が前を通っていました」
 


昭和30年代の通町1丁目のあたり(『今よみがえる横浜市電の時代』天野洋一)

 
「春風座は普通の映画館からピンク映画館になり、ストリップ劇場になりました。1971(昭和46)年ごろに一度は入ったことがあります。今のストリップ劇場は若い踊り子が多いですが、昔は30代以降の女性が多く、春風座もそうでした。特別な魅力があったわけではなく、周辺にストリップ劇場の数が少なかったので人気だったのでしょう」とのこと。



劇場近くでお店を営む店主
 


劇場近くのお店の店主

 
劇場があった近くのお店の店主に伺うと「劇場は1982(昭和57)年ごろに閉店して取り壊されて1~2年は広場になっていました。それまでは映画館で、1969(昭和44)年ごろにストリップになりました。映画館の名前が晩年『ニュー浅草』から『春風座』になり、ストリップ劇場になった時もその名前を借りて始まりました」

「映画館のころは近いこともあり、映画のフィルムをほかの映画館に運ぶアルバイトをしていました。春風座になってからは、踊り子さんなど関係者が当店をよく訪れましたね。円形舞台以外はほぼ内部は映画館の時と同じでした」
 


映画劇場春風座とある(昭和41年南区明細地図)

 
「ストリップショーの合間に女子プロレスや漫才なども行われていました。レオナルド熊とゴムパッチンで有名な芸人が2人で、漫才をしたこともありました。レオナルド熊が出演しているということで、後輩の渥美清も見に来たことがあります。また劇場内で、揉め事に巻き込まれた踊り子さんが刺されるという殺人事件もありました」

「劇場の社長は鳥が趣味だったので、入口にオウム・インコ・ジュウシマツなどの籠が並んでいるのが変わっていましたね。劇場内で池を作ってカルガモを飼ったりもしていたました」
 


劇場の前には鳥たちが並んでいたという(画像:Amos T Fairchild/Wikimedia Commonsより)

 
「午前11時から午後9時まで営業し、60人くらいは収容できたと思います。入場料は当時3000円で入れ替えなしなので朝から終了までいられました。人気のあったときは朝から人が入っていました。1日10人の踊り子が入れ替わりショーを行い、一公演10日間ごとの興業で、興行後、踊り子はほかの劇場に移りました。踊り子さんの持ち時間は、レコード3枚分でしたので、1人10分程度だったのでしょう。洋服の衣装もありましたが、衣装が和服の場合は演歌が流れたりしました」
 


店主の書いてくれた劇場内のイラスト

 
「踊り子は若い人から年配の人もいて、当店の顔なじみでしたので、よく『お兄さん』と声をかけてくれました。一度ショーで使用していた天狗の面が壊れた時に、家にあった面を代わりに貸してあげたことがありました。踊り子さんのなかには楽屋で寝泊まりする人もいたようです」

「私は社長と知り合いだったので、無料入場券をもらっていました。そのころ、自動車学校に通っていた私は、その無料入場券を教官に渡すと喜んで教習のハンコをサービスで押してくれたこともありました。社長は広島や関西系などの人でカタギではありませんでした。ほかの劇場でもありましたが、春風座の場合も一時はステージ上で本番を見せるショーを行っていたこともありました。そのため、問題になり警察の手入れが入る可能性もあったので、カタギの人では経営が難しいのです」
 


劇場春風座(昭和47年南区明細地図)

 
「私は楽屋に出入りしていたこともあり、踊り子さんと楽屋で花札をやったりしたこともありました。その時レオナルド熊もよく遊びに来ていました。また照明係の人は同じことをやらされていて飽きるのか、私が手伝ってあげると、大喜びで一服したりしていました」

「踊り子にはダンナさんがついてまわっていましたが、ヒモのような男たちでした。あるとき女房に子どもが出来たといい、近くの産婦人科で手術をして、その日の舞台に立たせていた男もいました。そこで非難すると、『ヒモはヒモで大変なんだよ』などと言っていました。閉店間際は客も少なくなっていて、自然の流れでつぶれた形でした」と答えてくれた。
 
 
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