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絶版の絵本に導かれ、横浜市電引退後の第二の人生に迫る!

ココがキニナル!

廃止された横浜市電の車両、市電保存館以外での行先や現状は?/緑区長津田みなみ台7丁目の公園にある「市電記念碑」はなぜあんなところに?いつから?車輪は本物?(よこはまいちばんさん/ozaさん)

はまれぽ調査結果!

市電は全部で37両と2車輪が民間供出され、図書館、自治会館などさまざまな第二の人生を歩んだ。緑区長津田の後谷公園の「市電記念碑」はその名残

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ライター:紀あさ

「やっていない」ことを証明する難しさを、「悪魔の証明」と呼ぶことがある。
事実があったことと比べ、事実がなかったことを証明するのは極めて困難であるというたとえだ。

以前掲載した「横浜市電が海に沈んだ? 車両の魚礁化計画があったって本当!?」の記事において市電車両が「魚礁にならなかった」と結論付けるまでに、極めて長い時間を調査に要した。
 


1ヶ月以上調べ続けていた


そんな中で、計らずして解けてしまった「キニナル」がある。
実に奇跡的な話なのだが、どう調べていたら「解けた」のか。順を追って紹介しよう。
 


魚礁にならなかった市電が導いてくれた調査です



絵本を頼りに



まず読者の皆さんは、市電漁礁化の調査で出てきた『はしれぼくらのしでんたち』という絵本を覚えているだろうか?

明確にそうとは書かれていないが、横浜市電の物語だろうといわれる、故・長崎源之助(ながさき・げんのすけ)さんの著書で、前回の調査において、市電ファンの森田満夫さんと、神奈川新聞の齊藤大起記者の両名から「絵本だが魚礁になった市電が載っている」として紹介された本だ。
 


「魚礁になった市電」のシーン(『はしれぼくらのしでんたち』より)


絵本の中では、引退した市電たちが、さまざまなところに引き取られ魚礁(車両番号1508号:以下同)となったり、公園に設置(1504号)されたりする。このほか、歯科(508号)やレストラン(号数表記なし)、理容室(1507号)、わかめ文庫(1503号)という名前の図書館として利用される市電たちが登場する。

これ以外の横浜市電と魚礁の関係を示す資料を知っていた人はおらず、前回の調査中、かなりの間、この本だけが頼りだった。
 


『はしれぼくらのしでんたち』、表紙はわかめぶんこ号


創作童話なのだが、よく調べると表紙の「わかめぶんこ」と描かれた車両は、かつて横浜で実際に供出された車両が地域文庫(図書館)として活躍した「わかめ文庫」の事例と車両番号まで合致している。なかなかすごい絵本だ。
 


鶴見区に実在した「わかめ文庫」の記事(読売新聞1972/9/2、1973/10/10)


長崎さんは、約100冊の作品を残した人だが、その大部分が横浜を書いたもので「わたしくらい横浜を書き続けている人はいないと自負しています」とほかの著書内で述べているほどに横浜を愛した作家だった。井土ヶ谷の自宅では、地域の子どものためにと、1970(昭和45)年より私設図書館「豆の木文庫」を開いた。
 


長崎さんと豆の木文庫に集う子どもたち(写真提供:長崎和枝さん/朝倉富久代さん)


正直なところ、彼の本『はしれぼくらのしでんたち』との出会いがなければ前回の取材中、もっと早々に「魚礁はおそらくない」と結論付けたと思う。しかし、「絵本で見た」覚えのある人たちが、市電の深い歴史に導いてくれた。

1冊の絵本が人の記憶として残り、街の記録への架け橋となる、そんな「物語と街との関係」に興味を惹かれ、本を手に街を歩き回った。

魚礁の件も含めて、この絵本がどこまで事実に基づいているのかを全部検証してみようと思ったのだ。
 


いざ完全検証! 穴があくほど読みました



鶴見区の市電文庫「わかめ文庫」、1503号

まず長崎源之助さんの奥様から「簡(かん)さんなら、絵本について何か知っているかも」と紹介していただき、鶴見区で「わかめ文庫」の代表簡照子(かん・てるこ)さんを訪ねた。

長崎さんは1972(昭和47)年に「よこはま文庫の会」という地域文庫の相互交流を図る連結機関を設立。当時会長を長崎さん、副会長を簡さんが務めており、1924(大正13)年生まれの長崎さんと1928(昭和3)年生まれの簡さんの親交は深かった。
 


「わかめ文庫」開設を祝う、「豆の木文庫」が発行した『豆の木しんぶん』の一部


「全部ホントの話よ」と言いながら絵本をめくる簡さん


最初は全部本当と言いながらも、読み終えると「歯医者さんは知っているけど、魚礁とレストランと床屋さんの話は聞いたことないわ」とのこと。
 


魚礁になった市電はやっぱり、なさそう


「わかめ文庫」が始まったのは1969(昭和44)年。当時はテレビっ子問題が起き始めたころで、小学生の子どもをもつ簡さんと仲間の数人で、みかん箱に本を詰めてそれぞれの家を回る地域巡回文庫の形でスタートしたそうだ。

そんなとき、市電車両の廃止を聞き「もったいない、さみしい、なんとか残したい」と思い「車両を文庫の活動に活用できるんじゃないかしら」と考えた。

市との交渉について簡さんは、「ごちゃごちゃ言われたけど、説明したら『じゃああげる』って車両をもらえたの」とさらっと言うが、よく聞けば初めは難航したそうだ。

 

「ケンカした市の課長・・・なんていったかしら? いい男だったわよね、大きくて」


最終的には市の理解を得られ、1972(昭和47)年に車両を無料で供出してもらえ、移動費も市が出してくれた。しかし、長さ12メートルもある車両の置き場所は自分たちで探さなければならない。

簡さんの自宅の地主さんは、簡さん宅から坂道を少し上がったところに700坪ほどの空き地を持っており、相談すると無料でその土地を使っていいと言ってくれた。

「それでね私、上の土地から下の自宅まで、(うれしくて)泣きながら帰ってきたの」
 


自宅のすぐ近くに市電を設置することができることになった


こうして「わかめ文庫市電図書館」が出発。周囲には市費で遊び場(ブランコ、シーソー、砂場など)も設置された。仲間の誰かが鍵を開けて立ち会う形で文庫は運営され、不在時は鍵を閉めていたため、車内の部品なども全部そろっていたという。
 


「わかめ文庫」の開会式の様子をつづる『豆の木しんぶん』


簡さんはその後「キビタスの会」という鶴見区に拠点をおくボランティアグループを設立。わかめ文庫の活動も含み、さまざまな地域活動を手掛けてきた。

わかめ文庫に障害児が来るようになると、障害者向けのボランティアを始めた。近所のひとり暮らしのお年寄りが寝たまま動けなくなり、アリにたかられてしまっていたのを目撃すると、お年寄りに対する活動を始め、老人ホームを作るための資金集めもした。

生活感覚の中の問題に対し、自分のできることを見つけ、仲間とともに解決していく地域の母のような簡さん。
 


キビタスの会活動記録


大変なこともあったのだろうが「みんなのためだから、へっちゃらよ」と笑う。

わかめ文庫のあった場所には、1983(昭和58)年より、特別養護老人ホーム「やまゆりホーム」が建ち、同年8月にわかめ文庫は移転。ホームの中にはご老人向けに「キビタスの会わかめ文庫」が作られた。
 


「やまゆりホーム」正面と、簡さん自宅からみた様子。以前車両はここにあった


そうして、1503号は鶴見から姿を消したが、現在簡さんらは「鶴見ふれあい館」という地域の皆が集う場をJR鶴見駅徒歩5分の場所に新しく作り、子どもからお年寄りまで幅広い年齢の人が訪れている。

地域文庫だったわかめ文庫1503号が培っていた、人と人のふれあいは、時を経ても、形を変えてここに引き継がれているといえるだろう。
 


鶴見ふれあい館


大人も子どもも集まり、わきあいあいとした様子だった。
 


店長の相良文江(さがら・ふみえ)さん


なお、その後車両は、鶴見から仲間が紹介してくれた長野県北佐久郡南御牧村(現在の佐久市北西部)の公園に移った。「わかめ文庫ファンの人がお金を出して移動までやってくれたの」と簡さんが言うと、横にいた文庫時代からの仲間が「ファンの人ってホントは簡さんよ」と耳打ちして笑った。

みんなで長野まで市電に会いにいったりもしたのだが、残念ながら、長野では手入れをできる人がおらず、部品の盗難もおき、その後十年ほどで解体されたと聞いたそうだ。
 


検証その1、完了!